「街道をゆく」で出会った「日本を代表する人物」 その10  韓のくに紀行  最も重要な登場人物「沙也可」のこと

僕はブログの最初に、『「韓のくに紀行」で司馬遼太郎が味わった気分を少しでも追体験したくて、今回の旅に出た。』と書いた。

 司馬遼太郎の「韓のくに紀行」での目的は、「日本とか朝鮮とかいった国名もなかったほど古い頃、お互いに大声でしゃべりあえば通じた、お互いに一つだと思っていた大昔の頃の気分を、韓国の農村などに行って味わいたい。」ということだった。

 そういう気分を少しでも味わいたいなら、街中が史跡と化している慶州の街を、1日でもいいから計画もなしにのんびり歩くのが一番なのだろう。

 僕の旅は韓国が誇る世界遺産を巡る贅沢な旅ではあるけれど、司馬遼太郎の味わった旅のコースとは全く違っている。
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 司馬遼太郎の「韓のくに紀行」は、韓国の古い時代の区分けとなる加羅(任那)と新羅と百済を訪ねる旅。



 加羅の旅の目次を見てみると

 韓国へ、釜山の倭館、倭城と倭館、釜山にて、李舜臣、駕洛国の故地、金海の入江



 新羅の旅の目次を見てみると

 首露王陵、新羅国、慶州仏国寺、歌垣、七人の翁、慕夏堂へ、倭ということ、沙也可の降伏、金忠善、友鹿の村、両斑、沙也可の実在



 百済の旅の目次を見てみると

 大邱のマッサージ師、賄賂について、洛東江のほとり、倭の順なること、李夕湖先生百済仏、まぼろしの都、日本の登場、白村江の海戦、平済塔、近江の鬼室集斯


 以上が司馬の「韓のくに紀行」の全容である。



 僕の今回の旅とクロスオーバーするところは、新羅国、慶州仏国寺の二つの節だけ。

 たったこれだけの接点で、「司馬遼太郎の味わった気分を少しでも追体験したい」っていうのは、いくら何でもむしが良すぎる望みというものだろう。

 だが、せっかく「韓のくに紀行」と銘打ったからには、せめてここ慶州にいる間に、司馬遼太郎の「韓のくに紀行」の意図と意味を、僕なりに把握したいと思った。


 旅の中で司馬が特に意図していたことは、朝鮮民族と日本民族が、それぞれの国が形成されてからも、古い時代からそれぞれの国を離れて異国の地に移り住んでお互いの国のために働いていたという事実の発見と確認である。
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 それを見つけるために、戦国武将である沙也可の足取りを追って、友鹿洞にまで出かけていく。(どうせ今日は大邱に泊まることだし、「韓のくに紀行」を読んでもいたので、僕も友鹿洞に行きたくなってついダメもとで、ここからすぐの友鹿洞をついでに見れるかガイドに聞いてみた。
 その結果ですが、阪急交通社さんは厳しいので、日程変更は絶対無理とのことでした。)
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 この沙也可が、「韓のくに紀行」の最も重要な登場人物である。


 沙也可は1592年4月に加藤清正の先鋒部将として釜山に上陸したが、朝鮮の文化を慕い、また秀吉の出兵に大義なしとの思いから、3000人の兵士と共に朝鮮側に降伏した。
 沙也可は火縄銃の技術を朝鮮に伝え日本軍とも戦い、戦後その功績を称えられ朝鮮王から金海金氏の姓を賜り(賜姓金海金氏)、金忠善と名乗って帰化人とり、現在の大邱近郊の友鹿に土地を与えられ住した。その後も女真族による侵略を撃退するなどの功績により、正二品の位階まで昇進したという。
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 沙也可の伝記である『慕夏堂文集』には、以上のようなことが詳しく書かれており、現在でも韓国では英雄とされている。

 慕夏とは、中国が理想の国を古(いにしえ)の「夏」に求めた儒学の習いに従ったまでのこと、それ以上の意味はないという。さらに慕夏主義というのは、歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。
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 ある国をそのモデルの体現者とみなすのだ。徳川幕府にとって中国、戦後の日本はアメリカ、かつては東欧諸国ではソ連が慕夏だった。


 この慕夏主義という言葉の由来に、沙也可は関わっている。

 沙也可(後の金忠善)は中国(文化の中心国)に憧れていて、日本(文化の周辺国)は中国になるべきだと確信していた。
 第1段階で儒教文化国の朝鮮(文化の中心に影響を受けた亜周辺国)になり、ついで宗主国の中国になるべきだと考え、朝鮮側に降伏し、帰化人となった。

 儒教とは、東周春秋時代、魯の孔子によって体系化された教えである。
堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代とし、権力・武力ではなく、君子の道徳的権威で社会を治めていく「徳治主義(王道政治)」をとなえた。
 骨子は「修己治人[しゅうこちじん]」で、倫理と政治を一体に考えるところに特色がある。



 沙也可は、戦国時代のような武力時代や武力政権が、余程嫌だったのだろう。

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