石狩川への旅 その12  月形町「樺戸集治監」にて

厚田村を出てからの行き先は月形町である。

 それから新十津川町、更に深川市など、司馬遼太郎が「街道をゆく 北海道の諸道」で書いていた場所を回り、昼過ぎには旭川市に入る予定である。


 北海道近代史の想像を絶する凄さとは、日本人が弥生時代(紀元前10世紀中頃から始まる)から始め、2千年もの時を使って拡大改良させて来た稲作技術を中心とする生活体系を、それまで縄文時代とほぼ同じレベルの狩猟・採取の生活体系の中に置かれていた土地に、わずか100年程度でほぼ全域に拡大定着させたことである。


 それは、欧米列強の帝国主義的圧力の前で、国の存亡を賭けて富国強兵を進め欧米に追いつき追い越すためにどんなことでもして来た、明治から始まる日本近代を象徴するような出来事だったと僕は考えている。

 農業的視点ではまったく未開で不毛な土地を、デンマークやウクライナのような優良な農業生産地にしようという試みが、北海道開拓の最初の目的である。
 
 現実には、実現可能なレベルで、領土であって領土で無いような生産価値の低い蝦夷地を本州並みの土地にしようということであり、こうすることにより、より多くの人口を養えることになる。

 厚田を出て1時間後に月形町に到着した。
 
 ここには北海道で最初の集治監「樺戸集治監」があり、彼らは北海道の最初の開拓者達でもある。

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明治の時代、北海道開拓は国の最重要事業の一つで、政府は高額の報酬を持って米国人ホーレンス・ケプロンを雇い、北海道を高度な農業地域に開拓しようと青写真を描いた。

 だが、維新の動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)で用意した財力が底をつくという不測の事態となった。

 更にこの動乱で多数の国事犯・重罪人がでたため、明治新政府は、収容する施設を早急に整備する必要に迫られた。

 そこで、当時未開の地「北海道」に反政府の危険分子を囚人として隔離し、過酷な開拓作業に従事させ、財力の不足を彼らの労働力で埋めようという一挙両得の政策を考えた。

 明治14年、東京・宮城に続き全国で3番目、北海道で最初の集治監「樺戸集治監」が、収容者数約1,500人規模の「農事監獄」として始まった。

 明治15年には、空知集治監が現在の三笠市に設置され、明治18年には釧路集治監が現在の標茶町に設置された。
 
 月形町は石狩川が交通手段として活用でき、裏手には山脈があり羆も棲んでいて囚人の脱走を阻止でき、また民家などもなく、肥沃な大地があり農耕地として利用できるとの理由で、ここに設置が決定したという。

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北海道で初めての監獄ということで怖いもの見たさで中に入ったが、室内は撮影禁止である。独房もあり興味深かったのだが、薄気味悪くもあり、早々に外へ出た。

 この樺戸集治監の囚人達の手により、北海道の大動脈ともいえる上川道路(国道12号)の開削が行われ、このことによって、北方警備と開拓者としての屯田兵や移民が入植できるようになったという。
 
 だが、この労働は過酷過ぎた。

 囚人労働者は、移動中は綱でつながれ、足には鉄鎖と鉄球がつけられ、道なき道を、冬の豪雪の中でも進み、道路や鉄道の建設、鉱山開発などに従事した。

 粗末な小屋で寝起きし、枕は丸太が一本渡されたもので、起床時には監視員が枕の端を叩く。小屋の出入口には鍵がかけられ、逃亡監視のための監視者が置かれた。

 とにかく囚人なので死んでもいい、代わりはいくらでもいるという感覚で使われたので死者が続出したという。

 
 逃亡を図り発見された者は見せしめのためにリンチされた。こうしていわゆるタコ部屋が確立された。

 この囚人を使っての過酷な労働は、「タコ」や「タコ労働」という言葉の発祥のもととなった。

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 月形町の名前の由来となった初代典獄 「月形潔」の胸像(月形樺戸博物館前)↑

 囚人労働にも似た過酷な労働は、蟹工船の世界や野麦峠の女工さん達や鉱山・炭鉱労働者の中だけでなく、北海道を開拓した普通の開拓者の中にも、多数事例が存在していたようであるが、ここではこの位に留めておく。 

 次は新十津川町が目的地となる。

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