石狩川への旅 その13 「新十津川町」にて
新十津川町の物語は、故郷崩壊と故郷再生の物語である。
新十津川町は奈良県南部に位置する日本一広い村として有名な十津川村の住民が、大洪水で被災し、難民同然に北海道の空知地方の中央部に入植し、新しい十津川をこの地で造りあげた町として有名で、今では北海道でも有数の富裕な農村として知られている。
小松左京氏の著名な小説に「日本沈没」というSF小説がある。日本の国に隣接している海溝の地下で微細な移動を繰り返すマントルの異常活動により日本国が日本海に沈没し、難民となった日本人が世界中の国に散らばるという、可能性としてはありうる話を小説にした物で、当時は村上春樹の「1Q84」程度の大ブームを起し、映画化までされた。
十津川郷の物語は、この日本沈没とまでは行かないが、被災地となった難民にとっては同じようなものである。
6カ村からなる十津川郷は、1889年に起きた記録的な大洪水の結果、村の戸数の4分の1に当る426戸の家屋が流失し、村の水田の50%が流され、少なくても2000人以上の村民が家を失い難民と化した。
新十津川町は奈良県南部に位置する日本一広い村として有名な十津川村の住民が、大洪水で被災し、難民同然に北海道の空知地方の中央部に入植し、新しい十津川をこの地で造りあげた町として有名で、今では北海道でも有数の富裕な農村として知られている。
小松左京氏の著名な小説に「日本沈没」というSF小説がある。日本の国に隣接している海溝の地下で微細な移動を繰り返すマントルの異常活動により日本国が日本海に沈没し、難民となった日本人が世界中の国に散らばるという、可能性としてはありうる話を小説にした物で、当時は村上春樹の「1Q84」程度の大ブームを起し、映画化までされた。
十津川郷の物語は、この日本沈没とまでは行かないが、被災地となった難民にとっては同じようなものである。
6カ村からなる十津川郷は、1889年に起きた記録的な大洪水の結果、村の戸数の4分の1に当る426戸の家屋が流失し、村の水田の50%が流され、少なくても2000人以上の村民が家を失い難民と化した。
湖と化した十津川郷 ↑
水田や山林などの生活基盤を失ったため、ここで生きていくことが出来なくなった2500名程の村人の移住先にはハワイなどの海外や国内の未開墾地が候補に上がり、結果として、石狩川流域にある空知地方の中央部が新しい十津川建設予定地として選ばれた。
十津川村は古来からの由緒ある村である。
奈良県の南大和地方の村で、神武天皇東征のとき道案内に立った八咫烏(ヤタガラス)をトーテムとする。
八咫烏(ヤタガラス)がデザインされた熊野神社の旗(3本足) ↑
トーテムとは、自分たちの「部族」や「血縁(血統)」に野生の動物や植物などが特別に関連していると信じていることである。
トーテムを信仰の対象、基礎とし、崇拝する信仰形態を指して「トーテミズム(トーテム信仰)」と呼ぶ。
この未開社会や古代文明、現代社会ではアメリカインディアンに多くみられるトーテミズムを継承している特異な地域が十津川郷である。
僕は、十津川村の古来からのトーテムである八咫烏(ヤタガラス)が気にかかった。
そして、八咫烏(ヤタガラス)を調べていくうちに、ヤタガラスの正体が、ワタリガラスであって、中国の伝説が日本に輸入され日本の神話に融合されたさいにヤタガラスとなったという説に共感した。
「ワタリガラス」はオオガラス(大烏)とも呼ばれ、日本では北海道で渡り鳥して見られることに由来する。
全てを見、全てを知ることを、アイルランドでは”ワタリガラスの知恵”という。
インディアンの神話では、ワタリガラスたちは、常に自主的に動く自由な存在だった。
ワタリガラスが「ワタリ」なのは、もちろん、ワタリガラスが旅をする鳥だからだ。
遠くを旅して来たもののみが持つ深い知恵と、長距離を飛ぶことの出来る強い翼と、住処を追われれば、大陸を越えても新天地を目指して飛んでゆく行動力を指して、きっと「ワタリ」の名をつけたのだと推測する。
十津川村の難民は、彼らのトーテムである八咫烏(ヤタガラス=ワタリガラス)の導きにより、新天地を目指して北海道に移住したような気がしてならない。だが、新天地はそんな生やさしい土地ではなかった。
世界を釣り歩いた文豪開高健だが、北海道の開拓移民の過酷な開墾の日々にスポットを当てた「ロビンソンの末裔」というかなり長い小説も書いている。
その中で登場人物の久米田がこんなことを言う。 「・・・オレは、かねがね考えてるです、北海道はシャツのようなもんだ。そこに川が流れてるです。これが縫目で、大きな縫目には石狩とか天塩とかがある。ほかにこまかい川や支流などが雑巾縫うように流れてる。北海道がシャツで川が縫目だとすると、開拓民はシラミです。シラミは縫目につく。開拓民は川につく。川をさかのぼって土地を切り開いてきたのが北海道です。縫目の無いところにシラミはおらんです。アメリカやカナダも、みんなそうやって、シラミが縫目さかのぼるようにして開いてきたのじゃかいですかな。」
石狩川流域の新天地は、シラミのような十津川村の難民にとっては、けっして住み心地の良い場所では無かった。
それどころか、生存することすら大変な場所だったという。
掘っ立て小屋のような屯田兵小屋で、十津川難民約2500名は凍死寸前のところで命を繋ぎ、うっそうと茂った原始林を切り開き、切り株を起こし、残骸を燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。
新十津川村の開墾風景 ↑
泥炭地の開拓はもっと過酷だった。
水分が80%も含まれており、スポンジのようにぷかぷかしており、足も踏み入れられなかった。この土地に10m毎に暗渠を造って地下水を流し客土(置き土)した。
戦中と戦後の時をかけ、この不毛の大地に国の莫大な予算を投下し、泥炭地を一等の農地に改良した。
シラミのようなロビンソンの末裔が、ともかくも道内屈指の富裕な農村を作り上げたことは、やはり神がかりというか奇跡というか、彼らのトーテムである八咫烏(ヤタガラス)のなせる技(わざ)のような気がしてならない。
こうして、「全てを見、全てを知る”ワタリガラス”」が過酷な開墾の道案内を果し、信仰深い勤勉な十津川の民に新天地を与えた。
現在の新十津川町 ↑
次は旭川が目的地となる
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