2012年に旅したオホーツク街道の続き その41 井上靖記念館

 「氷点」を歩く旅はこのくらいにして、これから旭川の井上靖を歩いてみる。

 井上靖は1907(明治40)年5月6日、北海道上川郡旭川町春光(現旭川市)の師団宿舎に軍医井上隼雄と八重の長男として生まれた。

 井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家で、父の隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり井上家の婿である。

 翌1908年、父が朝鮮に従軍したので母の郷里である静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市湯ケ島)へ戻った。

 約1年で旭川を離れたが、母やゑが語る5月の旭川の美しさに、「私は誰よりも恵まれた出生を持っていると思った」と、生誕の地旭川への思いを記している。

 旭川と井上靖の関りを知るには、井上靖記念館が最適である。

 記念館は生誕地の旭川市春光に1993年7月24日に開館したが、ここには井上靖の旭川への思いをつづった直筆ノートをはじめ、直筆原稿、文学作品、親交のあった芸術家の作品など、井上靖の83年の生涯を紹介する貴重な資料約470点が展示されている。

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 記念館の隣には、旧旭川偕行社が建っているが、この建物は旧陸軍第七師団が旭川に設営された際に、将校たちの社交場として明治35年に建設されたものである。

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 設計は陸軍臨時建築部、施工は大倉土木組で、建物はおもに師団関係者の会議、研修会、講演会、宴会、結婚披露宴、宿泊等に使用されていた。

 終戦後は、進駐軍が一時、将校クラブとして使用し、昭和24年、建物は国から旭川市に移管され、その後、仮校舎などに使用されている。

 いずれにしても、このあたりは旧陸軍第七師団の関係地である。

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 井上靖誕生の地に建つ井上靖記念館を、2010年9月22日午前11時頃、「石狩川の旅」の合間に訪れたことがある。

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 主な展示資料としては、井上靖が生まれた頃の旭川と母親への思いを綴った旭川ノートや、生地旭川について書いた詩の原稿、 初版本、小説「おろしや国酔夢譚」の取材ノートや集めた資料、小説「敦煌」「孔子」の取材ノート、愛用の万年筆、眼鏡、カメラ、河井寛次郎作の灰皿などの遺愛品があります。その他にも生前親交の深かった平山郁夫の陶板画「流砂浄土変」や、書家・金子鴎亭屏風「井上靖詩・飛天と千仏」なども展示している。

 ここで井上靖という人物の概略を紹介する。

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1907年5月6日 北海道上川郡旭川町(現:旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。

1908年 父が韓国に従軍したので母の郷里の静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市湯ケ島)へ戻る。

1912年 両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かのに育てられる。

1914年 湯ヶ島尋常小学校(後の伊豆市立湯ヶ島小学校。現在は閉校)に入学。

1921年 静岡県立浜松中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)に首席で入学。

1927年 石川県金沢市の第四高等学校理科(現:金沢大学理学部)に入学し柔道部に入る。

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1930年 第四高等学校理科を卒業し、井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿、詩作活動に入る。

 九州帝国大学法文学部(現:九州大学文学部)英文科へ入学する。

1932年 九州帝大を中退し京都帝国大学文学部哲学科へ入学。

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1935年 京都帝大教授・足立文太郎の娘ふみと結婚。

1936年 京都帝大卒業。『サンデー毎日』の懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社し学芸部に配属される。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰する。

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1950年 「闘牛」で芥川賞を受賞。

1950年代はいわゆる中間小説とよばれた恋愛・社会小説を中心に書いたが、徐々にその作風を広げ、1960年代以降は東アジアを舞台とした西域ものと呼ばれる歴史小説、幼少期以降の自己の境遇を基にした自伝的小説、敗戦後の日本高度成長と科学偏重の現代を憂う風刺小説、老いと死生観を主題とした心理小説・私小説など、幅広い作品を手掛けた。

 主な代表作は、「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「孔子」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)などで、10代から83歳の絶筆まで生涯にわたって詩を書きつづけた、生粋の詩人でもある。

 まだ海外旅行が一般的でない昭和期に、欧米の大都市からソ連、東アジア・中東の秘境まで数々の地を何度も旅しており、それを基にした紀行文や各地の美術評論なども多い。

 こんなところである。

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