九州散歩Ⅰ その41 福田浦まで
今日の午後の日程は、レンタカーを駆使して福田浦と出島などをみる長崎散策の旅である。
具体的には、上表のような日程で旅を進めていく。
長崎駅から路面電車に乗り、大浦海岸通り前に降車し、トヨタレンタ大浦店に向かった。
赤⇓が示す赤☆印の場所にトヨタレンタ大浦店はあるが、この近くにはグラバー園や大浦天主堂がある。
今回はそこには立ち寄らず、まず福田浦の神の島教会堂を目指す。
ここまで10km程、時間にして20分程の道程であるが、途中で有料道路となっている長崎女神大橋を通過する。
この橋は、長崎市中心部の渋滞解消を目的に、市内南部と西部を結んだ橋で、港内を航行する大型クルーズ船が通れる高さになっており、夜間にはライトアップが施され、夜景遺産にも認定された場所である。
ここで、長崎港の全体図を紹介しておく。
福田浦はおおよそ、赤□で囲った部分である。
大村純忠支配下の福田浦は、1565年から長崎開港の1570年の間、ポルトガル船が入港し、福田村には修道士や司祭が派遣され、教会堂も建てられた。
福田浦は長崎市西部の角力灘に面した地域で、南蛮貿易のポルトガル船の寄港地として1565年(永禄8年)に開港したが、外海(角力灘につながる東シナ海)に直接面していることが欠点となって寄港地は口之津港に移り、さらに1571年(元亀2年)には長崎港が開港した(長崎貿易の開始)。
1614年の禁教令で長崎に集められた宣教師たちは福田浦からマカオ等へと追放されたのである。
明治後半、福田浦の裏山の岳郷に、外海から入植があり、次第にカトリック信徒の集落ができた。
1955年1月1日に旧西彼杵郡福田村が編入合併されたことにより長崎市の市域に含まれることになった。
なお、福田浦(現在の長崎市大浜町)には昔、長崎遊園地があった。
通称「福田の遊園地」と呼ばれていたが、今はマンションが建ち、名残を感じさせるものはない。
長崎自動車や「長崎県大百科事典」によると、同遊園地は1957(昭和32)年、三菱の兵器工場建設予定地だった海岸埋め立て地に開園し、長崎自動車の関連会社が運営した。
敷地面積約3万2千平方メートル。
観覧車、メリーゴーラウンド、ジェットコースターなど17基の大型遊具を備え、野外ステージやプール、海水浴場もあった。
最盛期には年間204万人が入場したが、娯楽の多様化などにより年々減少し、95年に年間6万人を割り込み、96年8月31日に閉園した。
当時の長崎新聞は石だたみのコーナーで「約四十年にわたる歴史に静かに幕を下ろした」などと短く伝えただけだった。
具体的には、上表のような日程で旅を進めていく。
長崎駅から路面電車に乗り、大浦海岸通り前に降車し、トヨタレンタ大浦店に向かった。
赤⇓が示す赤☆印の場所にトヨタレンタ大浦店はあるが、この近くにはグラバー園や大浦天主堂がある。
今回はそこには立ち寄らず、まず福田浦の神の島教会堂を目指す。
ここまで10km程、時間にして20分程の道程であるが、途中で有料道路となっている長崎女神大橋を通過する。
この橋は、長崎市中心部の渋滞解消を目的に、市内南部と西部を結んだ橋で、港内を航行する大型クルーズ船が通れる高さになっており、夜間にはライトアップが施され、夜景遺産にも認定された場所である。
ここで、長崎港の全体図を紹介しておく。
福田浦はおおよそ、赤□で囲った部分である。
大村純忠支配下の福田浦は、1565年から長崎開港の1570年の間、ポルトガル船が入港し、福田村には修道士や司祭が派遣され、教会堂も建てられた。
福田浦は長崎市西部の角力灘に面した地域で、南蛮貿易のポルトガル船の寄港地として1565年(永禄8年)に開港したが、外海(角力灘につながる東シナ海)に直接面していることが欠点となって寄港地は口之津港に移り、さらに1571年(元亀2年)には長崎港が開港した(長崎貿易の開始)。
1614年の禁教令で長崎に集められた宣教師たちは福田浦からマカオ等へと追放されたのである。
明治後半、福田浦の裏山の岳郷に、外海から入植があり、次第にカトリック信徒の集落ができた。
1955年1月1日に旧西彼杵郡福田村が編入合併されたことにより長崎市の市域に含まれることになった。
なお、福田浦(現在の長崎市大浜町)には昔、長崎遊園地があった。
通称「福田の遊園地」と呼ばれていたが、今はマンションが建ち、名残を感じさせるものはない。
長崎自動車や「長崎県大百科事典」によると、同遊園地は1957(昭和32)年、三菱の兵器工場建設予定地だった海岸埋め立て地に開園し、長崎自動車の関連会社が運営した。
敷地面積約3万2千平方メートル。
観覧車、メリーゴーラウンド、ジェットコースターなど17基の大型遊具を備え、野外ステージやプール、海水浴場もあった。
最盛期には年間204万人が入場したが、娯楽の多様化などにより年々減少し、95年に年間6万人を割り込み、96年8月31日に閉園した。
当時の長崎新聞は石だたみのコーナーで「約四十年にわたる歴史に静かに幕を下ろした」などと短く伝えただけだった。
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