吉備王国へのみち その42 倉敷とお別れし、旅を終える
「くらしき川船流し」の次に、大橋家住宅を見にいった。
大橋家住宅は江戸時代の後期の大地主である大橋家の町屋建築の邸宅で、1978年に主屋・長屋門・米蔵・内倉の4棟が国の重要文化財に指定された。
大橋家の先祖は豊臣氏に使えた武士で、江戸時代のはじめに備中(現倉敷市)に移り住んだ。
水田・塩田を開発して大地主となり、金融業も営んで大きな財を成し、天保の飢饉の際には金千両(現在の物価に換算すると約1億円)を献上したり、香川県の直島に東京ドーム約3個分の塩田を開発したりと、地域に大きく貢献していた。
江戸時代後期、大橋家は大原家とともに「新禄」と呼ばれる新興勢力を形成していた。

大橋家住宅は1796年~1799年にかけて主要部分が建築され、1850年ごろまでの間に2度増築をしていた。
1978年に国の重要文化財の指定を受けたのち、1991年~1994年に建物の保存修理工事を行い、最も屋敷構えが整っていた1851年の姿に復元された。
主要な出入り口が長屋を貫くように作られていて、この構造は「長屋門」と呼ばれていて、「長屋門」は、当時通常の町屋には許されていない構造で、大橋家が代官所から特別に許可をもらえるほど格の高い存在だったことがわかる。
「倉敷窓」「倉敷格子」「なまこ壁」といった倉敷独特の建築方式が見られ、「倉敷格子」は上部は採光と換気に優れ、下部は外からは見えにくく中からは見えやすくするための構造で、快適に暮らすための「用の美」が感じられる。
大橋家住宅では建物を眺めるだけでなく、部屋にあがったり庭を歩いたりすることができ、広く清潔で自然光が差し込む空間はとても気持ちがいい。
広く清潔で自然光が差し込む空間はとても気持ちがよく、車の音もあまり聞こえず、通りの喧騒が気にならず、ここでは気楽にゆっくり過ごすことができた。
「大橋家住宅」の次に、「倉敷考古館」を見にいった。
倉敷考古館は、美観地区の倉敷川畔エリアのほぼ中央に位置していて、目の前には中橋、橋を渡った反対側には「倉敷館 観光案内所」という立地である。
倉敷考古館はナマコ壁の倉敷らしい建物の中に、旧石器時代から古墳時代の吉備地方の遺跡を展示する考古博物館で、展示品は岡山県から広島県東部に広がっていた吉備地方とその周辺の遺跡の出土品が中心だが、他県やペルーといった地域の展示品もある。
倉敷考古館の建物は美観地区を象徴する江戸期の豪商の米蔵で、倉敷考古館の展示は1、旧石器・縄文時代、2、弥生時代、3古墳・飛鳥・奈良時代、4ペルーの展示品 の4つのスペースに分かれている。
この部屋は1、旧石器・縄文時代の部屋で、旧石器時代の見どころは、鷲羽山遺跡から出土した石器である。
鷲羽山は倉敷市の南東にある瀬戸大橋がかかっているところの山で、旧石器時代に鷲羽山一帯で狩猟をしていた人々の遺跡である。
鷲羽山遺跡は西日本で初めて確認された旧石器時代の遺跡でたいへん重要なもので、ナイフ型の石器などが多数出土した。
鷲羽山遺跡の石器は「サヌカイト」という石でできていて、讃岐が代表的な産地だったことが、名前の由来である。
2、弥生時代、3古墳・飛鳥・奈良時代はここでは省略し、最後に4ペルーの展示品を紹介する。
ペルーの展示は倉敷考古館に設立に関わった大原氏が知人からペルーの貴重な資料を譲り受けたものである。
こんなものが並んでいたが、日本の各時代とペルーの各時代の資料・展示品を年代ごとに比べてみればおもしろいと思った。
この倉敷考古館で倉敷とお別れし新潟に戻ることになるが、「吉備王国へのみち」の、今日が最後のブログである。
大橋家住宅は江戸時代の後期の大地主である大橋家の町屋建築の邸宅で、1978年に主屋・長屋門・米蔵・内倉の4棟が国の重要文化財に指定された。
大橋家の先祖は豊臣氏に使えた武士で、江戸時代のはじめに備中(現倉敷市)に移り住んだ。
水田・塩田を開発して大地主となり、金融業も営んで大きな財を成し、天保の飢饉の際には金千両(現在の物価に換算すると約1億円)を献上したり、香川県の直島に東京ドーム約3個分の塩田を開発したりと、地域に大きく貢献していた。
江戸時代後期、大橋家は大原家とともに「新禄」と呼ばれる新興勢力を形成していた。

大橋家住宅は1796年~1799年にかけて主要部分が建築され、1850年ごろまでの間に2度増築をしていた。
1978年に国の重要文化財の指定を受けたのち、1991年~1994年に建物の保存修理工事を行い、最も屋敷構えが整っていた1851年の姿に復元された。
主要な出入り口が長屋を貫くように作られていて、この構造は「長屋門」と呼ばれていて、「長屋門」は、当時通常の町屋には許されていない構造で、大橋家が代官所から特別に許可をもらえるほど格の高い存在だったことがわかる。
「倉敷窓」「倉敷格子」「なまこ壁」といった倉敷独特の建築方式が見られ、「倉敷格子」は上部は採光と換気に優れ、下部は外からは見えにくく中からは見えやすくするための構造で、快適に暮らすための「用の美」が感じられる。
大橋家住宅では建物を眺めるだけでなく、部屋にあがったり庭を歩いたりすることができ、広く清潔で自然光が差し込む空間はとても気持ちがいい。
広く清潔で自然光が差し込む空間はとても気持ちがよく、車の音もあまり聞こえず、通りの喧騒が気にならず、ここでは気楽にゆっくり過ごすことができた。
「大橋家住宅」の次に、「倉敷考古館」を見にいった。
倉敷考古館は、美観地区の倉敷川畔エリアのほぼ中央に位置していて、目の前には中橋、橋を渡った反対側には「倉敷館 観光案内所」という立地である。
倉敷考古館はナマコ壁の倉敷らしい建物の中に、旧石器時代から古墳時代の吉備地方の遺跡を展示する考古博物館で、展示品は岡山県から広島県東部に広がっていた吉備地方とその周辺の遺跡の出土品が中心だが、他県やペルーといった地域の展示品もある。
倉敷考古館の建物は美観地区を象徴する江戸期の豪商の米蔵で、倉敷考古館の展示は1、旧石器・縄文時代、2、弥生時代、3古墳・飛鳥・奈良時代、4ペルーの展示品 の4つのスペースに分かれている。
この部屋は1、旧石器・縄文時代の部屋で、旧石器時代の見どころは、鷲羽山遺跡から出土した石器である。
鷲羽山は倉敷市の南東にある瀬戸大橋がかかっているところの山で、旧石器時代に鷲羽山一帯で狩猟をしていた人々の遺跡である。
鷲羽山遺跡は西日本で初めて確認された旧石器時代の遺跡でたいへん重要なもので、ナイフ型の石器などが多数出土した。
鷲羽山遺跡の石器は「サヌカイト」という石でできていて、讃岐が代表的な産地だったことが、名前の由来である。
2、弥生時代、3古墳・飛鳥・奈良時代はここでは省略し、最後に4ペルーの展示品を紹介する。
ペルーの展示は倉敷考古館に設立に関わった大原氏が知人からペルーの貴重な資料を譲り受けたものである。
こんなものが並んでいたが、日本の各時代とペルーの各時代の資料・展示品を年代ごとに比べてみればおもしろいと思った。
この倉敷考古館で倉敷とお別れし新潟に戻ることになるが、「吉備王国へのみち」の、今日が最後のブログである。
この記事へのコメント