九州散歩Ⅰ その42 神の島教会堂

 長崎遊園地の頃を思いながら福田浦まで来た。
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 これから、神の島教会堂まで向かう。
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 ここが赤字1の場所の教会堂へ続く長い石段で、信徒の方たちはここを登ってミサへ向かうが、若い人でも息が切れるほどの長い大変な道である。
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 長い石段を登って教会の敷地に入ると、赤字2の場所にりっぱな西兄弟の遺骨を納めた納骨堂があり、その隣に江戸時代の殉教者ガスパル彦次郎とアンドレア吉田を顕彰する碑も立っていた。

 神の島はもともと潜伏キリシタンの多い土地だったということで、大浦天主堂での信徒発見のあと、神の島で水方(キリシタンの秘密組織で洗礼を授ける役)を務めていた西政吉は、船でひそかに対岸の大浦に渡り、プティジャン神父に信仰を告白した。

 政吉は兄の忠吉と力をあわせてプティジャン神父の布教活動を助けるが、1871年に役人に見つかって捕縛、投獄された。

 禁教令が撤廃されるのはその二年後のことである。
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 赤字3の場所に、この神ノ島教会堂が建っていた。

 佐賀藩の飛び地だった神ノ島には、江戸前期からキリシタンが潜伏し、江戸後期には、砲台築造の人夫として外海からきたキリシタンらが移り住んできた。

 復活後はいち早く仮聖堂が建ち、多くの潜伏キリシタンがカトリックになったが、現教会堂は1897年にデュラン神父が私財を投じて建てたものである。
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 教会堂の裏手を少し登ると、美しい教会堂の後ろ姿と海の絶景を眺めることができる。

 向こうに見えるのは高鉾島で、ここの眺めは最高である。
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 カトリック神の島教会を見終え、次に赤☆印の場所にある「お告げのマリア修道会」神ノ島修道院に向かった。

 「お告げのマリア修道会」は長崎市小江原4丁目に本部を置くカトリックの女子修道会で、長崎県内において女子修道院のほか、医療機関、福祉施設、教育機関等の設置運営を行っている。
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 修道会の歴史を簡略に紹介する。

 明治時代に入り、それまでのキリスト教禁令が解かれて以降、長崎県内では潜伏キリシタンからカトリックに復帰する信者が多かったが、生活は苦しく、1874年(明治7年)に赤痢などの伝染病や台風被害などにより長崎各地で罹患者・被災者が続出した。

 彼らを救うためパリ外国宣教会のマルク・マリー・ド・ロ神父らが救護活動を始め、その手助けのために浦上(長崎市)の4人の独身女性が奉仕作業に協力した。

 彼女たちは家族への伝染病感染を防ぐため民家を借りて共同生活を始め、さらに被災地で取り残された孤児を保護し孤児院「浦上養育院」を創立し、農耕・牧畜をしながら養育していった。

 1877年(明治10年)に準修道会「十字会」として創立、1879年(明治12年)にはド・ロ神父により「聖ヨゼフ会」が創立され、外海、黒島、平戸、五島など長崎県内各地に協力者を募り、教会奉仕と福祉活動を目的とした共同体が創られた。

 彼女らの共同生活は「女部屋」と呼ばれ、社会福祉や幼児教育など、さまざまな活動を通して長崎のカトリック信徒から親しまれていたが、1956年(昭和31年)に長崎大司教の山口愛次郎により県下22の準修道院を合同して「聖婢姉妹会」が設立された。

 さらに1975年(昭和50年)にはローマ教皇庁の認可を受けた修道会となり、現在の名称に改めた。

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