「街道をゆく」で出会った「日本を代表する人物」 台湾紀行 その14 日本の台湾統治時代と「八田與一」のこと
王ガイドはまた、八田與一についても話した。僕は司馬遼太郎の台湾紀行を事前に読んでいたので、彼のことは知っていた。
司馬遼太郎の台湾紀行には印象に残る傑物が大勢登場し、台湾紀行の格式をグレードアップさせる役割を演じているが、僕が台湾紀行の中で特に惹かれたのが元中華民国(台湾)総統の李登輝、そしてもう一人が日本の水利技術者で日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした、王ガイドの話に出てきた八田與一だった。
八田與一は日本が台湾を統治していた時代の人である。
承知のように日清戦争後の戦勝国の戦利品という扱いで、日本は清から台湾を1895年に手に入れた。(日本帝国への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐した日本軍との乙未戦争に発展したが、間もなく崩壊、1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。)
それから50年間、台湾は日本統治の時代となり、統治は1945年に日本が敗戦となり、戦利品として得た台湾という領土を失うまで続いた。台湾統治は、台湾総督府出先官庁が行い、台湾総督がそのトップとなった。
総督は「土皇帝」と呼ばれるほどで、台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持った。初代総督に任命されたのは樺山資紀、海軍大将であった。続いて桂太郎(陸軍中将)、乃木希典(陸軍中将)、児玉源太郎((陸軍中将)と続いた。この児玉源太郎総督の時に台湾統治の骨格が確立した。
児玉総督は後藤新平を抜擢し、自らの女房役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。
そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら『生物学の原則』に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。
それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。
当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。
後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。
そして八田與一である。初代民政長官であった後藤新平以来、台湾ではマラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。
その後、発電・灌漑事業の部門に移った。
八田は28歳で当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたが、これを成功させ、高い評価を受けた。
当時の台湾はまさにこういったインフラ建設のまっただなかで、水利技術者にはおおいに腕のふるいがいのある舞台となっていた。1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。
嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。
そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。
事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。
そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。
この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。
烏山頭ダムは下村海南によって珊瑚潭の美称が与えられている。
現在でも烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を今は曽文渓ダムに譲っている。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムで、建設の計画自体も與一によるものであった。
烏山頭ダムは現在公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。
また、與一を顕彰する記念館も併設されている。
司馬遼太郎の台湾紀行には印象に残る傑物が大勢登場し、台湾紀行の格式をグレードアップさせる役割を演じているが、僕が台湾紀行の中で特に惹かれたのが元中華民国(台湾)総統の李登輝、そしてもう一人が日本の水利技術者で日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした、王ガイドの話に出てきた八田與一だった。
八田與一は日本が台湾を統治していた時代の人である。
承知のように日清戦争後の戦勝国の戦利品という扱いで、日本は清から台湾を1895年に手に入れた。(日本帝国への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐した日本軍との乙未戦争に発展したが、間もなく崩壊、1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。)
それから50年間、台湾は日本統治の時代となり、統治は1945年に日本が敗戦となり、戦利品として得た台湾という領土を失うまで続いた。台湾統治は、台湾総督府出先官庁が行い、台湾総督がそのトップとなった。
総督は「土皇帝」と呼ばれるほどで、台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持った。初代総督に任命されたのは樺山資紀、海軍大将であった。続いて桂太郎(陸軍中将)、乃木希典(陸軍中将)、児玉源太郎((陸軍中将)と続いた。この児玉源太郎総督の時に台湾統治の骨格が確立した。
児玉総督は後藤新平を抜擢し、自らの女房役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。
そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら『生物学の原則』に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。
それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。
当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。
後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。
そして八田與一である。初代民政長官であった後藤新平以来、台湾ではマラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。
その後、発電・灌漑事業の部門に移った。
八田は28歳で当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたが、これを成功させ、高い評価を受けた。
当時の台湾はまさにこういったインフラ建設のまっただなかで、水利技術者にはおおいに腕のふるいがいのある舞台となっていた。1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。
嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。
そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。
事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。
そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。
この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。
烏山頭ダムは下村海南によって珊瑚潭の美称が与えられている。
現在でも烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を今は曽文渓ダムに譲っている。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムで、建設の計画自体も與一によるものであった。
烏山頭ダムは現在公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。
また、與一を顕彰する記念館も併設されている。
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