越前と若狭の旅 その1 越国(こしのくに)のことと越前入りまで
かって越国(こしのくに)と呼ばれた地域があった。(下図の赤く塗られた地域)
現在の福井、石川、富山、新潟の各県にまたがる地域で、ヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域でありながら、朝鮮半島や大陸からの交通路になっていて、先進文化が栄えていた。
645年の大化の改新の頃までは、越国の西端は若狭国と越前国(現在の福井県美浜町と敦賀市)を隔てる関峠と明確に規定されていたが、越国の北端は船から新潟県の弥彦山を見るまでという漠然としたものだった。
越国は当初は高志国と書かれており、8世紀以降に越国と書かれるようになった。
律令時代に入ると越国は分割されて、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国に分割され、それぞれの国に国府がおかれた。
ところで、越国の三国は、ヤマト王権を強化し後の律令国家を築く礎となった第26代継体天皇の出身地でもある。
継体天皇は、戦後現皇室が継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになったこともあり、日本の歴史にとっては非常に重要な位置を占める天皇である。
「古事記」や「日本書紀」によると、継体天皇は応神天皇5世の子孫で、父は彦主人王である。
近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王(おおどのおう)として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
「日本書紀」によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議し、まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。
男大迹王は心の中で疑いを抱きつつも、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をし、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位した。
しかし日本書紀では、継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年も遷都を繰り返したと記述されている。
政権内部の葛城氏を中心とする反対勢力や磐井など九州北部の地域国家の豪族を、即位後すぐには掌握できていなかったことが伺える。
僕の今回の旅もそうスンナリと越前国には入れなかったが、そういうことはここでは記述せず、現在福井県(以前は越前国と若狭国と呼ばれた地域)となっている地域を暑い季節に旅した、熱い熱い思い出だけを綴っていきたいと考えている。
福井県までの道中で通過した新潟県、富山県、石川県については、国府が置かれた場所を推定する場面など、そのおりおりに記述していきたい。
旅の計画は次のとおり、夏の盛りの9泊10日の旅である。
それでは、九頭竜川の河口である三国湊から旅を始めたい。
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