九州散歩Ⅰ その44 出島

 岬のマリアを見たあと、出島に向かった。
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 出島まで10km弱、時間にして20分程である。

 出島は1634年江戸幕府の対外政策の一環として長崎に築造された扇型の人工島で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)、日本初の本格的な人工島である。
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 1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、1641年から1859年まではオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のあるVOC)を通して対オランダ貿易が行われた。
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 明治以降は、長崎港の港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり、扇形の人工島であった頃の面影は失われたが、出島全体は1922年(大正11年)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に鎖国によって閉ざされた日本にとって、出島は唯一欧米に開かれた窓であった。

 オランダ商館に医師として赴任したケンペル(1690年–1692年滞日、主著「日本誌」)、ツンベルク(1775年–1776年滞日、主著「日本植物誌」)、およびシーボルト(1823年–1828年および1859年–1862年滞日、主著「日本」「日本植物誌」)らは、西洋諸科学を日本に紹介するいっぽう日本の文化や動植物を研究しヨーロッパに紹介した。
上記3人は、「出島の三学者」と称されている。
 享保年間、8代将軍徳川吉宗が実学を奨励してキリスト教関係以外の洋書を解禁した結果、出島からもたらされる書物は、医学、天文学、暦学などの研究を促進させた。
 出島は医学・植物学・物理学・天文学などの蘭学の窓口となり、各藩から長崎への遊学者は2000名に及んだといわれている。
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 歴史から消え去ったかに見えた出島だが、その歴史的な価値が見直され、1951年から長崎市が出島の整備計画に着手する。

 建物の復元や街並みや家具などの整備等その復元作業は現在も続いていて、現在多くの建物が復元され、展示設備なども整備されている。
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 現在出島は大きく5つの時代に分けられた建物などを見学することが出来、入場ゲートは2つ、西側ゲートは鎖国期〜明治に時代を進むコースに、東側ゲートは、明治〜鎖国期と時代を遡るコースになっている。
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 ここは一番船船頭部屋で、オランダ船の船長や商館員の住居として使用された建物で、2階建の建物の1階が倉庫、2階が移住空間として使用されていた。
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 ここは二番蔵で、オランダからの輸入品である蘇木(染料)が収められていた蔵である。

 この二番蔵の他にも砂糖を収めていた一番蔵、砂糖他様々なものを収めていた三番蔵が既に復元されている。

 二番蔵の1階では「貿易と文化の交流」をテーマに、当時取引された様々な貿易品を紹介している。
 要所を見るにとどめて、出島を出た。

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