韓のくにの旅 その2 コダワリの旅とは名ばかり、なかなか強行日程の旅!!

 周さんは、阪急交通社の正社員、派遣社員でも臨時社員でもないことを誇らしげに話していた。

 現在韓国は朝鮮半島において軍事境界線(38度線)を挟み朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治区域と対峙する分断国家となっており、日本海を挟んでは日本と、黄海を挟んでは中華人民共和国と国境を接している。
 韓国の人口は約5000万だが、その4割の人口約2,000万がソウル都市圏(ソウル・仁川周辺)に集中している。

 李氏朝鮮下で500年の統一国家を形成していた朝鮮半島は、1910年の朝鮮併合より大日本帝国の統治下に置かれ、1945年9月2日、第二次世界大戦における日本の敗戦により、北緯38度以北にソ連軍が進駐し、南半分は上陸してきた連合国軍(実質的には米軍)の軍政下に入り南北に分断された。

 1950年からの朝鮮戦争ではほぼ全土が戦場となり、民間人に対する大虐殺もあったことから国土が荒廃し世界最貧国となった。
 ガイドの周さんの話では、韓国の今は日本の10年前くらいだとのこと。50年前の世界最貧国が、今はアジアの最先進国の一つとまでなった。
 僕はソウルの街をほんの少し垣間見たことがあるだけで、韓国の現在についてはほとんど何も知らないに等しい。

 司馬遼太郎は「韓のくに紀行」の目的を聞かれて、「日本とか朝鮮とかいった国名もなかったほど古い頃、お互いに大声でしゃべりあえば通じた、お互いに一つだと思っていた大昔の頃の気分を、韓国の農村などに行って味わいたい。」とそう考えて旅に出た。
 僕は「韓のくに紀行」で司馬遼太郎が味わった気分を少しでも追体験したくて、今回の旅に出た。

 今回の旅だが、旅行会社の案内はこんなものだった。


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 水原、丹陽、安東、慶州、九里、ソウルを巡り6箇所の世界遺産を見る旅、食事の魅力も紅葉の魅力も盛り込んだ、観光業者としては自身たっぷりで送りだした「決定版、こだわりの韓国大周遊5日間」の旅。
僕は旅行前に送付されて来たガイドブックの地図をじっくり見てみたが、これはなかなかハードな旅になるなと、ある程度の覚悟を決めた。


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 個人的に地図に記載のある地名ですぐ目に留まるのは「開城」、「板門店」、「春川」、「慶州」、「扶余」、「光州」などといった都市。

 「開城(ケソン)」は、今は北朝鮮南部にある都市だが、昔は高麗の王都として栄えた古都である。
 「板門店」は、韓国と北朝鮮の間に位置する停戦のための軍事境界線上にある村。
 江原道の「春川」は、「冬のソナタ」の舞台となった場所。
 「慶州」は、古代には新羅王国の首都・金城(クムソン)として発展し、高麗太祖王建が慶州と改称した都市。
 「扶余」は、新羅に滅ぼされる前までは扶蘇山城を中心に栄えていた百済最後の都。
 「光州」は人口100万以上の広域市で、1980年には軍事独裁政権に抵抗する光州事件が起こり、「民主と人権を象徴する都市」として有名。なおこの都市は今回のツアーガイドである周さんの出身地でもあることが旅の中で判明する。

 すぐ目に留まる地名の中で今回の旅で行くのは「慶州」のみ、機会を新たにして再訪問となるので、他の都市はその時までお預けである。

 
 スケジュールもよく見ると過密である。


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 新潟-仁川間は飛行機、他は全て観光バスでの移動。
 その移動距離だが、事前の日程表では1日目の移動距離が200km、2日目の移動距離が430km、3日目の移動距離が220km、4日目の移動距離が300km、バスだけで1150kmの移動距離となる。

 ホテル到着時間を見ると、1日目が午後9時、2日目が午後9時、3日目が午後8時、4日目が午後8時となっている。
 ホテルでゆっくり風呂に入りのんびりとくつろぐという余裕タイムが皆無の日程である。
 まあ、それでもいいか、バスの中で眠っていればいいんだなと考えたが、今回の旅の大まかなアウトラインがほぼ理解出来た。

安い料金で贅を極めたコダワリの旅とは名ばかり、強行日程の過酷な旅が予想された。

 周さんの前に集まった旅のメンバー達を見渡すと、一組の若い夫婦連れを除いてはほぼ還暦を相当過ぎられたお年を召した方々ばかり、大丈夫かなと不安がよぎったがもう後の祭り、観光バスの中へツアー一行14名は乗り込むことになる。


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旅行を終えたあとで、万里の長城での「日本人ツアー客3名の遭難死事件」が起こり、いい加減な旅行会社が存在することを知ることになるのだが、僕らは一切の懐疑感情もなく、最初の目的地である水原へ向かった。

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