金沢紀行 その4 主計町散策
「金沢文芸館」を出ると、浅野川沿いの主計町茶屋街に向かった。
金沢には、藩政期に公許され周囲を塀で囲まれた廓(くるわ)があり、 金沢城からの方角によって「東の廓」と「西の廓」に区分けされていた。
それは現在、「ひがし茶屋街」、「にし茶屋街」として、毎日大勢の観光客で賑わう金沢の観光名所の一つとなっている。
主計町は明治に入ってから花街になった街で、その頃には花街の周囲を塀で囲む制度が廃止されていたことから、ただの町名で呼ばれていた。
昼間の主計町は、お食事処と和風カフェを合わせて3軒ほどが営業しているだけで人通りも少なく、現役のお茶屋をはじめ有名な鍋料理のお店や小料理店、バーなどは、夜の来るのを待ってこの街で静かに眠っている。
ここは浅野川大橋で、そこに「今越清三郎翁出生の地碑」が建てられていた。
以前乃木坂の乃木邸を訪れたことがあったが、邸内にその碑には「乃木将軍と辻占売りの少年」と書いてある。
この、右側の乃木将軍に顔を撫でられている左の少年が今越清三郎である。
乃木将軍がまだ陸軍少将であった頃所要で金沢を訪れた際、たまたま街角で辻占(金沢で売られている砂糖菓子で中に小さな占い紙が入っていて何が書いてあるかを楽しむ)を売っている今越清三郎少年を見つけ事情を聞いた。
乃木少軍は彼の話にえらく感銘して、当時大金だった2円を少年に与え立派な人間になれよと励まされたという。
今越少年は恩を忘れることなく努力をかさね、金箔業の世界で大きな実績を上げ、後に滋賀県の無形文化財になり、昭和49年彦根の私立病院で91歳の生涯を終えている。
ところで、この主計町に向かう小路で二つの有名な坂がある。
一つは「暗がり坂」で、日中も日の当たらない暗い坂道なのでこの名で呼ばれているが、暗闇坂ともいわれている。
もう一つが、五木寛之の小説に出てくる、この「あかり坂」である。
尾張町から主計町へ通じる「暗がり坂」に平行する坂で、2008年までは名前の無い坂道だったが、地元住民からの依頼を受け五木寛之が作品の中で命名したとのことである。
主計町の最後に、浅野川大橋の中ほどから、浅野川の両岸に広がる風景を眺めた。
主計町を出て、浅野川沿いの道を歩いている。
これから黄線の「鏡花のみち」を歩き、「鏡花のみち」の中ほどにある「うめの橋」を渡って「ひがし茶屋街」に向かい、そこで昼食としようと考えている。
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