奈良大和路散歩(2016年の旅) その45 後醍醐天皇の南朝の行宮跡で
これから後醍醐天皇の南朝の行宮のあった場所に向かう。
行宮とは、天皇の行幸時あるいは政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事を言われる。
これからそこまで長い階段を降りて歩いて行く。
近く見えたのだが、塔まで行くのに10分ほど掛かってしまった。
吉野行宮は山中にある上、金峯山などの修験者勢力と、河内楠木氏・伊勢北畠氏・伊賀黒田悪党などの南朝側勢力との連絡などに便利であったが、後醍醐天皇はこの行宮で後村上天皇に譲位した直後に崩御、室町幕府軍は吉野侵入に成功して行宮を焼き払い、後村上天皇は行宮を賀名に移した。
吉野行宮の中心の場所であったとされているこの三重塔の前で、しばし歴史の概略を暗唱した後、この場所を離れた。
その帰りに、金峯山寺の僧侶の方とこの辺りで偶然出会って、面白い話を聞けたのでここで紹介する。
金峯山寺は、昔は高野山と境界を争うほど勢力の盛んだった寺で、ここから24km離れた山上ケ岳まで敷地だったとのこと。
この力のある寺を頼って、後醍醐天皇が来られ、その前には源義経も来た。
また、この近くには大和国・吉野川の側に置かれた古代日本の離宮である吉野宮(よしののみや)があったとされる宮滝遺跡(奈良県吉野郡吉野町にあるが、諸説あるようである。)もあり、この地に応神天皇や雄略天皇の頃から歴代の天皇が行幸されたという。
吉野川を挟んで北側は大和の国の発祥の地で、南側は神仙世界に繋がる神聖な場所であり、修験道(古神道とそれらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教)の修行の場所であった。
それから役の行者の話へ発展したが、それは省略する。
この僧侶との出会いで、知りたかったことをほぼ知ることが出来たので、気分が格段に爽快になった。
これから後醍醐天皇ゆかりの吉水神社に向かう。
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