2012年に旅したオホーツク街道の続き その46 小樽の「啄木の歌碑」巡りⅡ

 次に、小樽市相生町3-1にある「水天宮」境内にある歌碑を訪れた。
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 黄⇓の場所で、このあたりは密集した住宅地となっていた。
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 近くまで行くと、急坂の上に鳥居が見えたが、どうやら目指す水天宮の入口の鳥居らしい。
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 鳥居をくぐって急な階段を上っていき、水天宮の境内に達したところで後ろを振り返ると、このような通りを歩いて来たことがしっかり確認できた。

 小樽はやはり、どこも坂の町である。
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 目の前を見ると、このような立派な水天宮の社殿が建っていた。

 1859年に、飲料水と食料生産の神を奉っている神社として祭られた水天宮は、1919年に今の社殿が建てられ、小樽市指定の歴史的建造物のひとつとなっている。

 目指す啄木の歌碑は、水天宮社殿の右横にあった。
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 碑に刻まれている歌は


  
  かなしきは小樽の町よ

   歌うことなき人人の

    聲の荒さよ




 この歌は、「歌集一握の砂 忘れがたき人人(一)」の中の、小樽を歌った歌の中に入っている。

 かなしきというと、マイナスの意味にとられるが、この歌に込めた石川啄木の思いはそれとは違っていたらしい。

 「歌を詠むことをしない小樽の人々、それでいても不思議と活気に溢れている小樽、小樽で今までに経験のないような人々の温かさに接した。」

 そのような感動を、啄木は詠んでいたのだ。
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 水天宮社殿横から見た小樽の街は、啄木の感じた「在りひ日の小樽の栄華」を十分感じられる風景だった。

 最後に、小樽公園内の啄木歌碑を見にいった。
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 小樽公園は黄←の場所である。

 ここにある石川啄木歌碑の歌は
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  こころよく

   我にはたらく仕事あれ

    それを仕遂げて死なむと思ふ



 この歌は、歌集一握の砂「我を愛する歌」の中に入っている。


  意味はこんなだろう。

 こころよく、働く仕事が私にあってほしい。
 その仕事を成し遂げてから死にたいと思う



 前にも記したが、石川啄木は明治40年9月から小樽日報社に勤めることになり、三面記事の記者や歌壇の選者として才筆を振ったが、上司との意見の対立で同年12月に退社して翌年1月には小樽を離れることになった。

 なお、ここに歌碑を建てる際に市民から公募して啄木の歌を選んだところ、水天宮の「かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人人の 聲の荒さよ」が人気NO1となったが、選者が「かなしき」という言葉を嫌って再度市民の公募を行って選んだ歌という。

 小樽という土地を考えるなら、やはり「かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人人の 聲の荒さよ」が上だと思うが・・・・。



 続オホーツク街道の旅(2012年に旅したオホーツク街道の続き)は、今回をもって終了する。

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