九州散歩Ⅰ その45 トードス・オス・サントス教会跡(春徳寺)

 これから「トードス・オス・サントス教会跡(春徳寺)に向かうが、この教会は長崎で最初に建てられた教会で、大村純忠の家臣でキリシタン・長崎甚左衛門がイエズス会のアルメイダに与えた土地に、1569年ビレラ神父により建てられた。

 その後焼き討ちにあい、1603年に新しい教会堂が建てられ、禁教令後に、春徳寺が建った。
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 出島から春徳寺まで約3㎞、時間にして10分程かかった。
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春徳寺の入口には「トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡」の碑が建っている。
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 また、外道井と呼ばれるキリシタン時代の古井戸、祭壇に使っていたのではないかと考えられる大理石の石板を見ることができる。

 島津 ・大友・龍造寺の三家や各地の国衆が戦った戦国時代の九州の中で、元亀2年(1571)に南蛮貿易の港として開かれた長崎は、特異な場所だった。

 長崎は天正8年(1580)に、その地を領していた大村純忠によってイエズス会に寄進され、天正15年(1587)に豊臣秀吉が没収するまでイエズス会が統治することになる。

 永禄6年(1563)に受洗した大村純忠は、龍造寺隆信によって圧迫されており、天正5年(1577)に人質を出して従属していて、寄進の時点では大村家の長崎に対する支配は弱まっており、自治都市化しつつある状況だった。
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 イエズス会領となった長崎は武装を進め、特に、キリシタン大名である大村純忠や有馬晴信に脅威を与えている龍造寺隆信を敵視し、ルイス・フロイスは彼を「キリシタン宗団の大敵」「キリシタン宗門の迫害者」と呼んだ。

 日本準管区長ガスパル・コエリョは、大村純忠に対して龍造寺隆信に対する挙兵を促すなど軍事路線を唱えたが、彼の上司に当たる東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、「非常な危機を感じて心痛し、その対策に窮した者の幻想的な妄想」と、コエリョを突き放している。
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 天正10年(1582)にヴァリニャーノが天正遣欧使節とともに日本を離れると、コエリョは軍事路線を進め、沖田畷の戦いで有馬晴信を支援、島津・有馬の連合軍が龍造寺隆信を破ると自信を深め、秀吉のバテレン追放令(1587年)に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとするまでに至ったのである。

 こうした動きが、秀吉や徳川家康のイエズス会に対する警戒心を高め、禁教令へと繋がったといえよう。

 長崎の文化はキリシタン(カトリック)がもたらした南蛮時代に始まり、これが禁教によって断絶して、以後プロテスタントがもたらした紅毛時代に入る。

 南蛮は主としてポルトガルを指し、紅毛はオランダを指している。

 1620年、南蛮の長崎の最後が来て全てのキリシタン遺構・遺物が廃棄されてしまったとき、長崎には南蛮時代のものが何一つ存在しなくなり、春徳寺の外道井と呼ばれるキリシタン時代の古井戸、祭壇に使っていたのではないかと考えられる大理石の石板のみが長崎の紅毛時代の歴史を伝えているのみである。
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 司馬さんの「街道をゆく 肥前の諸街道」に沿って、まず福岡に入り、蒙古襲来(元寇)に思いを馳せながら、今津の元寇防塁、蒙古塚をたずね、虹の松原を通り、海人の松浦党に思いをめぐらし呼子へ向かった。

 平戸口からタクシーで平戸島に渡り、平戸城、オランダ商館跡、ザビエルの碑、三浦按針埋骨碑、松浦史料博物館、印山寺屋敷跡などをめぐり、大航海時代の南蛮・紅毛の国々について考察した。

 長崎では福田浦、出島、トードス・オス・サントス教会跡地に立つ春徳寺を訪れ、ポルトガル領だった時代の長崎を想った。

 今回で、「九州散歩Ⅰ 街道をゆく 肥前の諸街道」を終える。

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