韓のくにの旅 その3 「イ・サン」の築城した水原華城にて
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水原華城(スウォンファソン)は韓国京畿道水原市にある李氏朝鮮時代の城塞遺跡。
一般的には、韓ドラ「イ・サン」の主人公である李氏朝鮮第22代国王・正祖により築城された城として有名である。
一般的には、韓ドラ「イ・サン」の主人公である李氏朝鮮第22代国王・正祖により築城された城として有名である。
水原華城の錬武台観光案内所の前で、阪急交通社の正社員である周さんの説明である。
18世紀末に李氏朝鮮第22代国王・正祖が老論派の陰謀により非命に倒れた父(思悼世子)の墓を、楊州(ヤンジュ)・拝峰山(ペボンサン)から朝鮮で最高の吉相の地だといわれた水原・華山(スウォン・ファサン)へと移した。
その際に、近隣の村を水原の八達山(パルタルサン)の麓、つまり現在の位置に移して築造したもの。
正祖が父の思悼世子の祭礼をあげるために父の墓がある水原・華山へ向かう際、泊まれるように造ったというのが公式的な華城の築造理由だが、党派の争いを根絶し、強力な王道政治を実現するという遠大な政治的意志も込められている。
華城はそのような政治構想の中心として建てられたものであり、首都の南を防御する国防上の要塞として利用するという目的も併せて兼ねるものであった。
華城建築には、1794年から1796年まで2年を越える月日と37万人の労力が投入された。華城は老論派を排除し実学を重視した正祖の理想都市であり、一時は華城への遷都も検討されたが、華城完成直後に正祖が死亡(49歳で逝く、織田信長や上杉謙信と同じ)したため遷都は見送られた。
城壁の長さは5kmを越え、華城は全盛期である朝鮮文化の象徴、朝鮮という王朝が示すことのできた全ての理論と学説、東洋と西洋の技術をも融合させ、当時としては巨額の予算と人力が費やされた。
僕らのツアーの今回の見学は右上の赤矢印線だけ、周さんは左手の親指と人差し指でホンのこれだけと笑って済まなそうに言った。
周囲5kmを超える華城を説明も加えて真面目に見学しようとすれば2〜3日は必要だろう。早足で歩いて見て回るだけでも2時間はかかると計算されるコースである。
それを説明付きで1時間弱で済ませてしまうのだから、完全燃焼の喜びなど何一つない不完全すぎる見学となる。
華城のイントロ部分を徘徊して終わりである。
このイントロ部分がこれから行く東将台、東北空心墩、蒼龍門(チャンロンムン)である。
先ず初めに東将台である。
鍊武台ともいい、華城の施設の中で一番威容があり、普段は軍師を訓練し指揮する将台。屋根の形は八角屋根の形式で、四方を見渡せるように壁を作っていない。裏には瓦を花の形のように積上げた垣根、玲瓏墻がある。
その際に、近隣の村を水原の八達山(パルタルサン)の麓、つまり現在の位置に移して築造したもの。
正祖が父の思悼世子の祭礼をあげるために父の墓がある水原・華山へ向かう際、泊まれるように造ったというのが公式的な華城の築造理由だが、党派の争いを根絶し、強力な王道政治を実現するという遠大な政治的意志も込められている。
華城はそのような政治構想の中心として建てられたものであり、首都の南を防御する国防上の要塞として利用するという目的も併せて兼ねるものであった。
華城建築には、1794年から1796年まで2年を越える月日と37万人の労力が投入された。華城は老論派を排除し実学を重視した正祖の理想都市であり、一時は華城への遷都も検討されたが、華城完成直後に正祖が死亡(49歳で逝く、織田信長や上杉謙信と同じ)したため遷都は見送られた。
城壁の長さは5kmを越え、華城は全盛期である朝鮮文化の象徴、朝鮮という王朝が示すことのできた全ての理論と学説、東洋と西洋の技術をも融合させ、当時としては巨額の予算と人力が費やされた。
僕らのツアーの今回の見学は右上の赤矢印線だけ、周さんは左手の親指と人差し指でホンのこれだけと笑って済まなそうに言った。
周囲5kmを超える華城を説明も加えて真面目に見学しようとすれば2〜3日は必要だろう。早足で歩いて見て回るだけでも2時間はかかると計算されるコースである。
それを説明付きで1時間弱で済ませてしまうのだから、完全燃焼の喜びなど何一つない不完全すぎる見学となる。
華城のイントロ部分を徘徊して終わりである。
このイントロ部分がこれから行く東将台、東北空心墩、蒼龍門(チャンロンムン)である。
先ず初めに東将台である。
鍊武台ともいい、華城の施設の中で一番威容があり、普段は軍師を訓練し指揮する将台。屋根の形は八角屋根の形式で、四方を見渡せるように壁を作っていない。裏には瓦を花の形のように積上げた垣根、玲瓏墻がある。
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