「街道をゆく」で出会った「日本を代表する人物」 その17 津軽街道 「太宰治思ひ出広場」や「明治高等小学校跡」を歩く

 斜陽館の見学後は、黄色いだ円で囲んだ「太宰治思ひ出広場」や「明治高等小学校跡」や芦野公園駅に立ち寄りながら、昼食場所となる「喫茶店駅舎」に向かった。
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 赤線の道をのんびり歩きながら辿っていく。

 最初は「太宰治思ひ出広場」である。
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 金木小学校に通学する子供たちのかよう道、通称「学校通り」の一角に平成10年3月に造られた。
 左手端の題字は太宰治長女津島園子さんによるもので、煉瓦には太宰作品の全てが刻されている。
 設置の目的は、子供達に郷土の生んだ作家に親しんでもらうことと、金木町を訪れた太宰ファンがこの道を通って「斜陽館」や「太宰文学碑」へ行く途中の休憩所として利用して欲しいとの願いからとのこと。
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 昭和20年の表示のあたりに、昭和19年に書かれ今回の旅の参考書とした小説「津軽」の名も刻されていた。

 太宰治は青森中学2年の大正14年(16歳)の頃から小説を書いていて、最初の作品となった「最後の太閤」の名も刻されていた。
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 大正14年の「最後の太閤」から始まり、昭和23年の亡くなった年の作品「グッド・バイ」や「家庭の幸福」まで、全部で170作品以上の名が広場の赤レンガに刻されていた。

 次に「明治高等小学校跡」の石碑に出合った。
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 太宰治は大正11年4月から1年間、中学進学前の学力補充という目的で、この「明治高等小学校」に通った。

 尋常小学校での太宰の成績が優秀なのは地域実力者の息子に対する学校の配慮だと勝手に判断した父が、中学進学前の学力補充という目的で通わせた学校なので、その不満や悔しさが作品にも出てくる。
 「明治高等小学校跡」の石碑を後に歩いて行くと、すぐに大通りに出た。

 右手方向に進めば芦野公園駅の方角である。
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 その途中に、金木小学校のグランドがあり、小学生たちが野球に興じていた。

 芦野公園駅はもうすぐである。

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