越前と若狭の旅 その4 三国湊の旧遊郭地帯を散策する
次にろ地点の地蔵堂である。
ここの地蔵は延命子安(安産と子授けのお地蔵さま)とのことである。
またこの傍の坂は地蔵坂と呼ばれ、この近くには三国湊の世に名高い遊郭があったという。
その地蔵坂を、これから下って行く。
ここは昭和を代表する詩人三好達治が愛したという、元料亭「たかだや」である。
三好達治も高見順と同じく東大卒で、1944年から1949年までの5年間この三国に疎開し、戦争後も滞在して「たかだや」に頻繁に通って三國の風情に親しんだという。
その間に詩集花筐、故郷の花、日光月光集などを発表、三国を去ったあとも三国を心のふるさとと語り懐かしんだと伝えられている。
僕が三好達治で覚えている話はそういう教科書的な話ではなく、彼が萩原朔太郎の美人4姉妹の末の妹のアイを大好きになり、結婚を申し込んものの断られ、それでもあきらめきれずに妻を離縁してついにアイと結婚したというもの。
この写真の右が朔太郎で、左の美少女がアイである。
アイは写真のとおり美人だが性格の悪い女で、三好との結婚までに3回の結婚と離別を経験していた。
結婚してから何年も後に、三好達治はアイを福井の田舎の一軒家に拉致して乱暴し、そのまま監禁してどこへも出さなかったという話が残っている。
この話は萩原朔太郎の娘の葉子が書いた「天上の花」という小説の中に出てくる話で、三好は実際はそういう人間では無く、この話はあくまでも小説の世界だけのものであるとのことだが、僕個人は三好はそういう人間だと今でも思っている。
三好がアイを監禁していたような雰囲気のする元料亭「たかだや」を後にして、地蔵坂をなおも下って行く。
ここに古地図を掲載した見返り橋の解説看板が出ていた。
この地蔵坂を降りたところで出会う辰巳川に架かっていた小さな橋が、現在地にあった「見返橋」で、遊郭で遊んだ後に名残を惜しんで見返るという意味で付けられたらしい。
三国の遊郭は二つあって、ひとつは上ハ町(うわまち)で福井藩領、もうひとつが出村(でむら)で丸岡藩領、その二つの廓を繋ぐのが地蔵坂だとこの解説版には書かれていた。
僕はどうやら今、昔丸岡藩領の出村遊郭だったあたりにいるらしい。
三国の遊郭は屈指の格式と教養を誇った遊女たちによって名高く、その中でも三国出村の「荒町屋」お抱えの遊女哥川は永正寺の住職・第17世の永言に俳諧と書を学び、能書家として俳人として広く知られ、加賀千代女ら他国の俳人との交流もあった。
辰巳川をもう少し下った場所に、遊郭と世間を繋ぐもう一つの橋、思案橋が復元されている。
思案橋の方はその昔、遊郭へ入るときに行こうか戻ろうか若者たちが思案したという意味で付けられた橋である。
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