越前と若狭の旅 その5 三国湊口留番所跡などを見学

続いて、へ;三国湊口留番所跡、と;湊銭取立所跡を散策した。

最初に三国湊口留番所跡である。

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この番所は口留御番所ともいわれ、福井藩が三国湊に出入りする貨物を監視するために置いたもので、1644年に町端から丸岡藩滝谷出村との地境の現在地に移転した。

出入りの貨物には種類により銀高に口銭一分から三分を課して、三国湊の港湾機能に関わる特権を独占していた。

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次に三国湊口留番所跡の通りを挟んだ向かい側にあった湊銭取立所跡である。

三国突堤の工事費を捻出するため、1880年から入港する船が減った1890年まで、入港する船舶から港銭を徴収するため、ここに取立所を置いていた。

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ここの散策を終えて通りをしばらく歩き後ろを振り返ると、視界いっぱいに広がっている道路端の合わさった辺りに思案橋が見え、右手方向には三国湊口留番所跡、左手方向には湊銭取立所跡が見えた。

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続いて、ち;旧岸名家、り;旧森田銀行の順に見学した。

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 まず、旧岸名家である。


旧岸名家は代々新保屋惣助(屋号新惣)を名乗り、材木商を営んでいた。

この建物は川方の商家造りの典型で、建築様式は妻入りの前面に平入の屋根を伴った「かぐら建て」という三国湊独特のもので、江戸後期に建てられた。

先祖は1707年に創設された俳諧結社の初代宗匠で、岸名昨嚢と称していた。

さっそく旧岸名家に入ると、案内のおばあ様が写真を取り出して説明を始めた。

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海ではなく川湊である三国湊に、二艘の北前船が碇泊している写真である。

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