奈良大和路散歩(2016年の旅) その46 吉水神社を散策

吉水神社は後醍醐天皇が吉野に潜幸したときの行宮である。


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これから、新緑真っ盛りの吉水神社に入っていく。

先に見た「金輪王寺」も後醍醐天皇の行宮なので、最初はこの辺りのことはどうなっているのだろうと混乱してしまって、後日ネットで調べて了解した。


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吉水神社の入り口の門には、南朝四帝御所とはっきり書かれていた。


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敷地内にも、このような標柱が建っていた。

吉水神社の略縁起では、吉水院は南朝の皇居が置かれた所としていて、境内には「皇居跡」の石柱が建ててあった。

しかし別の伝承では、後醍醐天皇はまず吉水院に滞在し行在所としたが、手狭であったので金峯山寺蔵王堂の西にあった実城寺を改造し山号も金輪王寺と改めて皇居とし、そこから諸国へと向かった皇子や、配下の武将に様々な指令や檄を飛ばしたとある。

どうやらこの別の伝承が正しいようで、この解釈に従って吉水神社を歩いていく。


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神社の谷に面した面は一目千本と称されていて、花の頃にはピンクの絨毯が延々と続く見事な絶景となるのだが、新緑の今もなかなかの風景となっていた。


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一目千本から目を敷地内に転じると、あの有名な後醍醐天皇の歌が石柱に刻まれていた。

ここにても 雲井の桜咲きにけり

    ただかりそめの 宿と思ふに

歌の意味はこうである。

吉野の吉水院の行宮は、ただ仮そめの住まいと思っていたのに、ここにも「雲井の桜」と呼ばれる花が咲いたのだった。

後醍醐天皇の心境を偲びながら、雲井の桜を見たかったのだが、今となってはどうにもならないことである。

この後、本殿に隣接する書院に入った。

書院には、後醍醐天皇の玉間と、源義経や弁慶が潜居したと伝えられる間があり、いずれも重要文化財に指定されている。


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この狭い部屋が弁慶思案の間となっていて、ここに潜伏したとき、義経は16才、弁慶は35才と伝えられている。

16才の義経やこれからのことを思って、いろいろと狭い部屋で悩んだのだろう。

ここで一緒だった静御前と義経は,その後二度と会わなかったという。



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