「街道をゆく」で出会った「日本を代表する人物」 その20 本郷界隈 宮沢賢治
続いて、イの宮沢賢治旧宅に向かった。
この坂を下って突き当りにあった稲垣という家主の家(当時の住所は本郷菊坂町75番地)の二階六畳間を借り、賢治は馬鈴薯中心の菜食主義者らしい自炊生活をしていた。
菜食主義者としての彼の思想を示したものに「ビヂテリアン大祭」という作品がある。この中で賢治は彼の思想を語っていると思われる語り手の私にこう言わせている。
「もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていゝ、そのかはりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けないとかう云ふのです。けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないやうにしなければならない。」
ここには、彼の菜食主義思想の原点に近い考え方が現れている。
賢治にとっては、動物の命も人間の命も同等の価値であった。
宮沢賢治旧居跡の表示看板があったので読んでみた。
賢治は1921年1月上京、同年8月まで本郷菊坂町の稲垣方の二階六畳間に間借りし、東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をしていた。
これらの活動と並行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚のペースで原稿を書いていたという。
童話集「注文の多い料理店」に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。
8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急いで花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほどの原稿が入っていたという。
このトランクに入っていた残りの作品が気になったので、ネットで調べてみた。
童話集「注文の多い料理店」は当初、童話集「山男の四月」という名だったという。
その童話集の中に、それではどんな童話が収録されていたのか。
どんぐりと山猫・・・・・・(一九二一・九・一九)
狼森と笊森、盗森・・・・・(一九二一・一一・…)
注文の多い料理店・・・・・(一九二一・一一・一〇)
烏の北斗七星・・・・・・・(一九二一・一二・二一)
水仙月の四日・・・・・・・(一九二二・一・一九)
山男の四月・・・・・・・・(一九二二・四・七)
かしはばやしの夜・・・・・(一九二一・八・二五)
月夜のでんしんばしら・・・(一九二一・九・一四)
鹿踊のはじまり・・・・・・(一九二一・一・九・一五)
どんぐりと山猫以下鹿踊のはじまりまで、9作品が勢揃いしている。
大正十年一月から八月(1921年1月から8月)までの家出上京中、宮沢賢治は国柱会の高知尾智耀氏からの奨メにより法華文学を志し、このような童話作品を創作した。
トランクいっぱいの彼なりの法華文学の到達点とも言える未完の童話を故郷に持ち帰り、郷里の花巻で矢継ぎ早に、かしはばやしの夜を始めとする「注文の多い料理店」収録作品のほとんどを、7ヶ月ほどの間に一応の完成形として成立させた。
作品の左に記載されている数字は、作品が一応の形となった年月日である。
ここでもう一つ、童話集「注文の多い料理店」になる前の童話集「山男の四月」がどんな作品なのか気になったので、これもネットで調べてみた。
甲南女子大学教授である信時哲郎教授の「いのちの代償――宮沢賢治「山男の四月」論――」が、面白く参考になった。
山男の四月(大正11年4月7日)」は、町に出た山男があやしい支那人に六神丸という薬にさせられてしまう夢を見るという物語である。
しかし作品の評価は低く、本作品を扱った論文の数が「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」の数十分の一にも満たないという現状だという。
この不人気な童話が何故「注文の多い料理店」などの魅力的な童話を差し置いて当初は童話集のタイトルと予定されたかだが、「山男の四月」に付された日付が、心象スケッチ集「春と修羅」(大正13年4月発行)の標題作「春と修羅」の制作日の前日になっていることでもわかるとおり、当初は「春と修羅」と「山男の四月」は同じ四月に同時に発行される予定だったという。
四月に発行される予定だったので、「山男の四月」というタイトルを予定されたのだが、残念ながら出版社の資金繰りが出来なくて、後日出版となった。
今から思えば、僕が読んでも「山男の四月」は童話集のタイトルとなるにふさわしい童話には思えず、むしろ話の内容も話の展開もインパクトのある「注文の多い料理店」で適切だったと考える。
「山男の四月」はただ、人が生きていくために他人の命を奪って生きていくというショッキングなテーマを扱っているので、重要な内容を含んでいることは間違いない。
1921年といえば朝鮮併合をしてから10年後であり、これからますます日本の国は軍国主義への道を歩むわけで、それはとりも直さず、日本人が生きていくためにアジアの同胞の命を奪っていった時代背景も考えねばならない。
童話の内容には支那人蔑視ともとれる内容が含まれていて、中国大陸へ進出するアジアの軍事大国の影が読み取れる。
まるで修羅の世界のような日本の現在の姿を、童話集のタイトルとして前面に出すことを、賢治は当初は考えていたのかもしれない。
ただそうはならず、花巻(イーハトーブ)をすぐに思い出すような童話をタイトルに選んだことは政治的な色合いを極力避け、人間の心を扱う法華文学の一つの到達点として相応しいと感じた。
信時哲郎教授の「いのちの代償――宮沢賢治「山男の四月」論――」は、僕の発想を遥かに凌ぐ論文で、こんな論を展開していく。
「山男は山鳥を殺しておいて、にやにやしているような肉食の人物であるが、自分の命が他者の生存のために必要だとされていることを敏感に感じ取ると、自分は食べられてやらなければならない、山男は肉食者としてのモラルをあくまでも守ろうとする。」というところに注目する。
引用する童話は「なめとこ山の熊」で、この中では賢治が肉食者としてのモラルをわかりやすく描いている。
なめとこ山の熊(昭和2年頃)」の主人公、熊撃ちの小十郎は畑も林も持っておらず、そこで仕方なく罪深い殺生で生業をたてている人物として設定されている。
ある時、小十郎が熊を撃とうと銃を構えると、熊に「おまへは何がほしくておれを殺すんだ」と詰問される。
小十郎は「あゝ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高売れると云ふのではないしほんたうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを云はれるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食ってゐてそれで死ぬならおれも死んでもいゝやうな気がするよ。」と答える。
ここでは他の生物を殺す立場の者が、その矛盾を突きつけられると、今までの立場を全く反転させて、自ら進んで死を引き受けようとしている。
つまり「自分のからだなどどうなってもかまわない」とばかりに、自分に対する執着を潔すぎるくらいに振り捨てようとしているのである。
さて、小十郎を詰問した熊の方も「おれも死ぬのはもうかまわないやうなもんだけれども少しし残した仕事もあるしたゞ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまへの家の前でちゃんと死んでゐてやるから。」と頼み、小十郎はそれを聞き入れる。
するとその熊はきっかり二年後に、小十郎の家の前で死ぬという事態に至るのである。
物語の終わり近くになって、小十郎は熊に殺されてしまうが、最後まで両者は敵対しあう関係としては描かれていない。
むしろお互いの「命」を提供しあいながら、なんとか共に生きていこう、と助け合う関係として、つまり彼らは「殺し合う関係」としてではなく、「生かし合う関係」として描かれていると言うことができると信時哲郎教授は結んでいる。
久しぶりに宮沢賢治の青春時代の旧居で、彼の世界で遊ぶことができた。
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