「街道をゆく」で出会った「日本を代表する人物」 その21 本郷界隈 朱舜水と水戸藩の話
次に東大農学部校内にある朱舜水記念碑を見学である。
本郷の東京大学校内は加賀藩屋敷跡であったが、東大農学部校内は江戸時代は水戸藩の中屋敷があった場所である。
水戸藩上屋敷は、現在は後楽園スタジアムとその隣にある小石川後楽園(江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の大名庭園であり、現在は都立庭園として、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。)となっている。
それでは東大農学部校内に突入する。
この門が東大農学部の正門「農正門」である。
農正門は、農学部が1933年に駒場から旧制第一高等学校跡に移転後、1935年に建てられた。
設計は東大の建物の多くを手掛けている建築博士で後の帝国大学総長の内田祥三氏で、木の腐食が激しい為2003年に建て替えれる事になり、木曾のヒノキ材を使用し創建当時の姿を完全に再現した。
農学部の門の横にある守衛の方から朱舜水記念碑の設置場所を聞いたが、守衛の方が聞かれたことがないという返事で、5分ほどそのあたりをうろうろしていたら、ようやく碑が見つかった。
何のことはない、朱舜水先生終焉の地と書かれた碑は守衛室の裏側の空き地に、隠れるように建てられていた。
ところで、水戸藩中屋敷にひっそりと眠る朱舜水とは何者か。
その前に水戸藩とはどういう藩なのかネットで調べてみた。
水戸藩は江戸時代に徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた徳川御三家の一つである。
御三家とは家康九男の徳川義直を祖に持つ尾張徳川家(尾張藩62万石)、家康十男を祖に持つ紀州徳川家(紀州藩56万石)、家康十一男を祖に持つ水戸徳川家(水戸藩35万)である。
その水戸藩の第2代藩主が徳川光圀、あの有名な水戸黄門、徳川家康の孫でもある。
少年の頃の光圀はいわゆる不良だったというが、光圀が18歳の時に「司馬遷の史記伯夷伝」を読んで感銘を受け、行いを改めたという。
徳川光圀は歴史に魅せられ、1657年に駒込邸(水戸藩中屋敷)に史局を設置し、紀伝体の歴史書である「大日本史」の編纂作業に着手した。
大日本史は日本史上有数の歴史書で、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し明治時代に完成した。
神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱っている。
紀伝体の史書で、本紀73巻、列伝170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)の大作で、携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。
水戸学は儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもので、全国の藩校で教えられ、その「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛などの幕末の志士達に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。
ところで朱舜水だが、彼は中国が清王朝になって日本に亡命した明の遺臣で、この66歳となっていた朱舜水を徳川光圀は江戸に迎え優遇した。
それでは朱舜水は「大日本史」の編纂作業の中心人物だったのかというと、そうでもないらしい。
司馬遼太郎は「街道をゆく 本郷界隈」で、朱舜水のことをこう書いている。
徳川光圀は本郷中屋敷に朱舜水のための邸宅を建て、そこに住まわせた。
舜水は光圀の話し相手になったり、藩の儒者の質疑に答えたりするだけで、彼は何の義務も負わず、藩校も起こさず弟子も育てず、そのようにして17年を過ごし83歳で死んだ。
そのようにしているうちに舜水の存在は水戸学へ思想的影響を与え、舜水の人柄と学問の深さゆえに、光圀は舜水を敬愛し門人の礼を取った。
彼は亡命した明の遺臣としては破格の扱いで、歴代藩主の墓地に明朝様式の墓を建てられ眠っている。
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