東方見聞録に登場する「カタイ」と「マンジ」の起源

マルコポーロの東方見聞録は、東洋の地理や風俗を初めて詳細にヨーロッパに紹介した旅行記として有名である。

この中にはいささか奇妙な地名が登場するのであるが、この中から「カタイ」と「マンジ」の起源を紹介する。

まず、マルコポーロがいうところの、元朝をさす「カタイ」である。

 「カタイ」の語源は、モンゴル系の一支族で10世紀に「遼」を建国した契丹人に由来するもので、北東アジアでは「キタイ」の名で知られていた。


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契丹はおよそ二世紀に渡って北中国を支配したため、中央アジアや西方地域で「キタイ」の名が浸透し、元代になっても華北の通称として「キタイ」は広く用いられていた。

現在もロシア語やトルコ語でキタイと呼ぶのは当時の名残りで、香港のキャセイ航空もこの契丹が語源である。



 ※→契丹は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族で、10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。

しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。

契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。



次に華南の「マンジ」の語源である。

「マンジ」と呼ばれた地域はかっての南宋の支配区域と重なり、漢族が南方の諸民族をさげすんで呼んだ「蛮子(マンツー)」の元音なまりからきている。

いわゆる東夷、北狄、西戎、南蛮の南蛮で、蔑称である。

モンゴル支配時代の中国の諸地域は、支配される以前のままの領域が認められ、政治や社会形態もモンゴルとは一線を画していたとされる。


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このような背景をふまえ、モンゴルと近親関係にあった遼や金が支配した華北とは違って、依然漢族が勢力を持つ華南やそこの住民たちは、モンゴル人から「蛮子(マンツー)」と呼ばれて軽蔑されていた。

「マンジ」とは、モンゴル人の漢族軽視の背景から生まれた差別用語である。

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