「九州散歩Ⅰ 街道をゆく 「豊後・日田街道」の旅 その5「天領日田資料館」
青字1の「廣瀬資料館」を見終え、青字2の「天領日田資料館」に向かった。
天領日田資料館は豆田御幸通り草野本家隣にある歴史資料館で、豆田地区町並み保存運動の拠点として設立された。
主に日田の江戸期民俗文化及び天領に関する展示をおこなっていて、1988年(昭和63年)7月2日開館に開館している。
広瀬淡窓(既に紹介済み、日田市長・衆議院議員を務めた広瀬正雄は久兵衛の4代目の子孫、大分県知事の広瀬勝貞は正雄の息子)や平野五岳などの文人詩人の書画、古文書、古地図、日田陣屋絵図などが展示されている。
また、日田市内のダンワラ古墳から出土したとされる重要文化財「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」の復元レプリカも展示されている。
京都大学元教授梅原末治氏の論文には、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したダンワラ古墳は竪穴式の古式古墳であるが、その副葬品の1つの辻金物の作りから5世紀以降、おそらく5世紀から6世紀に作られた古墳であると書かれている。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、背面の装飾は腐蝕のために剥落した部分が多いものの、約3分の1が残存しており原状をうかがうことができる。
全面に金で竜文が象嵌されており、その角や爪は銀の象嵌とされ、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌入されている。
中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。
発見者によれば、石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。
また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土したともいう。
ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われるが、その被葬者や、このような豪華な副葬品が納められた理由は明らかでない。
天領に関する展示はさらっと見て回ったが、まず郡代屋敷(陣屋)跡を紹介し、あとは展示資料にて説明する。
天領とは、江戸幕府直轄領のことで、上記のような説明で理解できる。
なぜ日田が天領になったかは、上記のような説明で理解できる。
日田代官・郡代の役割だが、大変な任務も兼務していたようだ。
代官所は、全国各地にこんなに数多く存在していた。
青字2の「天領日田資料館」を見終え、次に青字3の「草の本家」に向かった。
天領日田資料館は豆田御幸通り草野本家隣にある歴史資料館で、豆田地区町並み保存運動の拠点として設立された。
主に日田の江戸期民俗文化及び天領に関する展示をおこなっていて、1988年(昭和63年)7月2日開館に開館している。
広瀬淡窓(既に紹介済み、日田市長・衆議院議員を務めた広瀬正雄は久兵衛の4代目の子孫、大分県知事の広瀬勝貞は正雄の息子)や平野五岳などの文人詩人の書画、古文書、古地図、日田陣屋絵図などが展示されている。
また、日田市内のダンワラ古墳から出土したとされる重要文化財「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」の復元レプリカも展示されている。
京都大学元教授梅原末治氏の論文には、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したダンワラ古墳は竪穴式の古式古墳であるが、その副葬品の1つの辻金物の作りから5世紀以降、おそらく5世紀から6世紀に作られた古墳であると書かれている。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、背面の装飾は腐蝕のために剥落した部分が多いものの、約3分の1が残存しており原状をうかがうことができる。
全面に金で竜文が象嵌されており、その角や爪は銀の象嵌とされ、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌入されている。
中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。
発見者によれば、石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。
また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土したともいう。
ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われるが、その被葬者や、このような豪華な副葬品が納められた理由は明らかでない。
天領に関する展示はさらっと見て回ったが、まず郡代屋敷(陣屋)跡を紹介し、あとは展示資料にて説明する。
天領とは、江戸幕府直轄領のことで、上記のような説明で理解できる。
なぜ日田が天領になったかは、上記のような説明で理解できる。
日田代官・郡代の役割だが、大変な任務も兼務していたようだ。
代官所は、全国各地にこんなに数多く存在していた。
青字2の「天領日田資料館」を見終え、次に青字3の「草の本家」に向かった。
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