越前と若狭の旅 その15 朝倉氏の遺構を歩く
これから一乗谷川を渡って対岸にある朝倉氏の遺構を見ていく。
一乗谷川を渡る際に渓流魚でもいるのではないかと思ったが、イワナの姿もヤマメの姿も見えなかった。
朝倉氏の遺構については、赤字い;中の御殿と赤字ろ;朝倉館の二箇所を見て回る。
これから赤字い;中の御殿遺構に向かうが、右方向には今回の旅では見なかった諏訪館跡庭園がある。
諏訪館は朝倉義景が4人目の側室である小少将のために造ったと伝えられる館で、近くにある資料館には諏訪館の屋根板の重しや、魔除けの鬼瓦が展示されているが今回は見なかった。
階段を上がって右に曲がると中の御殿南門跡があった。
この門跡の前方に中の御殿が広がっていたのである。
中の御殿跡は義景館跡の南隣にあり、朝倉義景の母である光徳院が居住したと伝えられている御殿跡である。
更に階段を上り上に登ると、中の御殿跡の全景が目の前に広がり、遺構の説明をしたカラーの石版が設置されていた。
雄大な風景を目の前にして一気に気分が盛り上がり、次の赤字ろ;朝倉館跡を目指して再び歩いて行った。
ここは朝倉館跡正面の堀に面して建つ幅2.3メートルの唐破風造り屋根唐門である。
この唐門は朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝えられている。
一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館跡に入っていく。
平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。
館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在していた「つわものどもの夢の跡」である。
この見取図のように朝倉館が設置されていた。
館跡の東南の隅の奥に、福井藩主松平光通が墓塔を建立した朝倉義景の墓がある。
朝倉義景は戦国時代の武将で、越前朝倉氏第11代(最後)の当主である。
織田信長に追い詰められ、ついには滅ぼされ、朝倉氏一乗谷の栄華とともに朝倉氏は滅びるのである。
義景の御霊に頭を下げ、一乗谷を離れることにした。
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