続オホーツク街道の旅 (2012年に旅したオホーツク街道の続き) その14 釧路到着

 厚岸駅から今夜の宿泊地である釧路に向かった。
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 釧路までは距離にして約50km、午後4時半には釧路に到着した。
 釧路市は道東地方を管轄する国や道の出先機関のほか、外国公館 国際機関の置かれている道東の政治の中心都市である。
 江戸時代、釧路はアイヌ語でクスリと呼ばれていて、寛永年間(1624~1643年)には松前藩の船が定期的に訪れてアイヌと交易、木材や昆布の積み出しをここで行った。
 1799年に蝦夷地が幕府領になると、本州から移住した農民や漁民が増え、漁業や交易、交通の拠点となる。
 その後、明治政府のもとでクスリは釧路とあらためられた。

※→簡略に記したが、釧路の語源には従来三つの説があると言われている。
 一つはクシュル説、二つはクッチャロ説、三つ目が既に紹介したクスリ説で、すべてアイヌ語が語源となる。
 第一のクシュル説は、通路もしくは越路の意味で、昔から釧路は交通の要路で、しかもアイヌの大きなコタンがあったことから、ここを中心に人々が往来したのでそう名付けたと言うもの(磯部清一『北海道地名解』)。
 第二のクッチャロ説は、咽喉という意味で、釧路川の水源にある湖をクッチャロと言うが、寛永十二年に松前藩がクッチャロのアイヌをいまの釧路に移住させて、そこをクスリ場所にしたという説に基づいて、クスリは釧路の前の地名で、これはクッチャロという発音の転化したものである。(永田方正『蝦夷語地名解』)
 第三のクスリ説は、クスリとは「薬」もしくは「温泉」と言う意味で、クスリ湖(クッチャロ湖の原名)を水源とするクスリ川(釧路川の原名)にちなんで、その河口にあるコタンだからクスリと命名されたという。(佐藤直太郎『釧路語源考』)

 釧路の語源はそんなところであるが、明治32年(1899年)の釧路港の開港以後、釧路の街は飛躍的に発展していった。
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 釧路の街は、釧路川と新釧路川を区切りに海岸沿いの3つのエリアに分かれている。
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 大まかに分別すると、東側が「炭鉱の街」、真ん中が「漁業の街」(中心街) 、西側が「製紙の街」(工場地帯) で、釧路の街が歴史のある3つの産業によって成り立っていることがわかる。
 また、国際バルク戦略港湾(穀物)に選定された釧路港を持ち、製紙工場や食料品工場、医薬品製造工場、発電所などを擁する臨海工業都市で、また多くの観光客が来る釧路空港と、釧路湿原国立公園および阿寒摩周国立公園の2つの国立公園を市域に有している。

 釧路の真ん中の街の産業である漁業は、江戸時代の末期に海岸の昆布を採ることから始まった。
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 明治時代の中頃に、青森、秋田、新潟、富山などから多くの漁業者が移住し、沿岸や沖合での漁(主に、昆布、鮭、ニシン)が定着、エンジン付きの船の登場で漁業が発展し、ロシア(当時はソ連)やアラスカ近海の北洋漁業の基地として大量の漁獲高をあげ、1969年から9年間も続けて水揚げ量日本一を記録した。
 釧路漁港は国内3大漁港のひとつでもあり、1977年の200海里規制以後北洋での漁業が厳しくなったため、近年は再び沿岸漁業が見直され、シシャモやウニなどの養殖にも力を入れている。

 釧路の東側の街の産業である炭鉱業だが、石炭の採掘は明治維新の頃から始められ、函館港の開港に伴い、入港する外国船に燃料供給を行っていた。
 1920年には太平洋炭鉱株式会社が創業して本格的に石炭を採掘、石炭への需要が伸びる中で従事者数は最大で約5000人、最盛期には年間261万トンもの石炭を採掘して釧路を支える産業のひとつとなった。
 石油へのエネルギー転換により国内の炭鉱が次々と閉山された中、現在も規模を縮小しながら釧路コールマイン株式会社が国内唯一の坑内掘りの採炭を続けている。
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 2019年の春まで、釧路川の東側では炭鉱列車が走っていた。

 最後に、釧路の西側の街の産業である製紙業の紹介である。
 日本製紙と王子製紙、釧路には2つの大きな製紙工場がある。
 日本製紙株式会社釧路工場は1920年に操業を開始し、山林と水、豊かな自然に恵まれた釧路の地で新聞用紙や溶解パルプの生産を行っている。
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 1959年には王子製紙株式会社釧路工場が操業、こちらは阿寒湖から流れる阿寒川からの取水で、段ボール原紙、新聞用紙、各種印刷用紙を生産している。
 製紙業は釧路を代表する基幹産業のひとつとなり、新釧路川河口から阿寒川河口の間の地域は、この2つの製紙工場を中心とした工場地帯になっている。

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