続オホーツク街道の旅 (2012年に旅したオホーツク街道の続き) その15 「挽歌」

 幻想的な海霧が町を包む釧路を舞台に、自由奔放なヒロインの怜子と妻子ある建築家桂木との不条理な愛を描いた「挽歌」は、1956年に出版されるや72万部を超えるベストセラーとなり、翌年には人気女優久我美子主演で映画化されて全国に挽歌ブームを巻き起こした。
 簡略に小説の概要を説明する。
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 「挽歌」のヒロイン兵藤怜子は北海道の霧の街(釧路のこと)に生まれた。
 怜子は病弱のために旧制女学校を中退し、また結核性の関節硬直で左ひじが不自由という障害を抱えてもいた。
 彼女の家は祖父の代までは富裕だったが、今は没落して生活力の無い父親、大学受験生の弟、母親代わりのばあやの4人で暮らしている。
 22才となった怜子は普段はほとんど人と付き合わず、地元の素人劇団の美術部で裏方の仕事をしながら気ままに暮らしている。
 怜子はふとしたことから妻子ある中年の建築技士桂木節雄と出会い、桂木の落着きとかすかな陰影に好奇心を抱いていく。
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 また、美貌の桂木夫人と若い医学生との密会を偶然目撃した彼女は、急速に夫妻の心の深みにふみこんでゆく。
 阿寒の温泉で二夜を過し、出張した彼を追って札幌に会いにゆく怜子。
 怜子は桂木と付き合いながら、一方では夫人・あき子の優しさと美しさにも魅かれていき、やがて姉のように母のように彼女を慕うようになっていった。
 ある日、怜子は桂木との関係を自らあき子に打ち明け、同時にあき子への思いも告白する。
 夫だけでなく、自分をも愛するという矛盾に満ちた告白にあき子は追い詰められていき、霧の深い夜に自らの命を絶ってしまう。
 亡くなったあき子の胸元には怜子からプレゼントされたネックレスが輝いていた。
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 あき子の死から3か月後、怜子は偶然桂木と再会するが、夫人のデスマスクが頭から離れない。
 彼女は桂木との別れを決意し、ふたりの恋は終わりを告げた。
 若さのもつ脆さ、奔放さ、残酷さを見事に描いた傑作として評価されているようであるが、大変ショッキングな内容で話も重くて、人間の業の深さをこれでもかこれでもかと見せつけられているようで、同じような印象を心に残してしまう、あの旭川を舞台にした三浦綾子の「氷点」をつい思い出してしまうのである。
 小説の舞台となった場所をネット資料で紹介する。
 まず相生坂、その名の通り、南大通と浦見町を結ぶ2つの坂が合流する坂である。
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 晩夏の前半でヒロインの怜子が桂木の愛犬に掌を咬まれるシーンがあり、この出来事がきっかけで物語は大きく動き出すが、映画でこのシーンの撮影場所となったのが相生坂である。
 映画では主人公兵藤怜子の実家がこの坂を登りきった丘の上にあるという設定だったようで、映画にちなんで挽歌坂ともいわれている。
 続いて紹介するのは幣舞(ぬさまい)公園である。
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 公園の一角に、「高台から見降すと下町には明りがともっていた。しかし町の明りの果ては、広い真暗な湿原地に呑みこまれているのだった。」という『挽歌』の一節が刻まれた文学碑が立っている。
 その次に、挽歌の中で印象的に描かれている釧路湿原である。
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 釧路湿原駅から徒歩10分程度の細岡展望台から釧路湿原を紹介するが、ここは釧路湿原の中でも人気のある展望台の1つで、「大展望」と呼ばれる第2展望台からは湿原の中を蛇行する釧路川と、雌阿寒岳・雄阿寒岳を望む壮大なパノラマが開けている。
 最後に、挽歌作者の原田康子さんを紹介する。
 本名佐々木康子で釧路市の出身である。
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 市立釧路高等女学校を卒業後釧路新聞に勤務し、1955年から同人誌「北海文学」に「挽歌」を連載し、1956年に出版されて大ベストセラーになった。
 1956年「挽歌」で第8回、1999年「蝋涙」で第38回の女流文学賞、2002年「海霧」で第37回吉川英治文学賞を受賞している。
 2003年に北海道文化賞受賞を受賞し、人気作家となった後も北海道在住のままで執筆活動を続けた。

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