続オホーツク街道の旅 (2012年に旅したオホーツク街道の続き) その16 釧路の石川啄木への旅の始まり

 6月下旬の道東の旅、昨日遅く釧路に着いたのでこの街で見たかった石川啄木の足跡が見れなかった。
 このホテルにもう1泊して、釧路の街に残っている啄木の足跡を訪ねる旅を挙行した。
 ここで、啄木の北海道での足取りの概略を紹介する。
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 啄木は新生活を北海道で開こうと、1907年5月5日、函館青柳町の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の松岡蕗堂の下宿(赤字イの場所にあった。)に身を寄せる。
 しかし、妻子は盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託しての新生活だった。
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 5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立て、6月に苜蓿社の吉野白村の口利きで、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となり、そこで片想いの赤←の女性・橘智恵子と知り合った。
 8月には代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者も兼ねたが、8月25日の函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失した。
 やむなく9月には単身で札幌へ渡り、北門新報社の校正係となったが、9月末には北門新報社を退社し小樽に移った。
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 小樽で近く創刊される小樽日報社の「小樽日報」記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社したが、小樽日報では退社の原因となった野口雨情が同僚であった。
 当時の主筆が雨情と以前に確執があり、啄木も主筆と対立したことから雨情の起こした主筆排斥運動に荷担する。
 しかし、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になった。
 この主筆はそのあとに解任されている。
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 1908年(明治41年)1月19日、啄木の才能を買っていた北海道議会議員で小樽日報社長兼釧路新聞社長である白石義郎に誘われ、家族を小樽に残し、釧路新聞(現在の釧路新聞社とは無関係、現在の北海道新聞社)に編集長として勤務することになり、1908年1月21日午後9時半に釧路駅に到着した。
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 啄木が釧路に滞在した1908年1月21日~同年4月5日までの76日間であるが、釧路の街には至るところに啄木の残した足跡が存在している。
 今日は啄木が釧路に残した76日間の足跡を訪ねる旅である。

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