2012年に旅したオホーツク街道の続き) その17 啄木歌碑への旅 その1
啄木が釧路にいたのは、真冬から早春までの76日間で、ほとんど厳寒の冬の旅となった。
上図で再度啄木の北海道の旅をもう一度たどってみると、明治40年の5月5日から明治41年の4月5日までのほぼ1年間で、函館には5月から9月までの4か月程、札幌には9月の下半月程、小樽には9月下旬から翌年1月中旬までの4か月程、釧路には1月下旬から4月上旬までの3か月半程暮らしていた。
北海道の一番厳しい季節に、啄木は釧路で76日間にわたって生活したのである。
釧路の街に残っている啄木の足跡を訪ねる旅は、釧路市街に残っている啄木歌碑を訪ねる旅でもある。
北海道の一番厳しい季節に、啄木は釧路で76日間にわたって生活したのである。
釧路の街に残っている啄木の足跡を訪ねる旅は、釧路市街に残っている啄木歌碑を訪ねる旅でもある。
ネット資料の啄木歌碑マップから引用しているが、釧路市街には25もの啄木歌碑が建てられている。
これから歌碑マップに従って、順番に見ていくことにする。
これから歌碑マップに従って、順番に見ていくことにする。
25基の歌碑のうち、1基だけが旧釧路川の北にあり、ほかの24基は幣舞橋を渡った、釧路川の南にある。
まず旧釧路川の北の1から見ていくが、ここはかつて釧路停車場があった場所で、現在は釧路市交流プラザさいわいが建っていて、その前に歌碑がある。
まず旧釧路川の北の1から見ていくが、ここはかつて釧路停車場があった場所で、現在は釧路市交流プラザさいわいが建っていて、その前に歌碑がある。
ここは、明治41年(1908年)1月21日の夜9時半に、旧釧路新聞社の編集長として赴任した啄木が釧路に初めて降り立った場所とされている。
そうであれば、ここには有名な「さいはての 駅に降り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」が設置されていると誰しも思うはずだが、ここに設置されているのは別の歌碑である。
そうであれば、ここには有名な「さいはての 駅に降り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」が設置されていると誰しも思うはずだが、ここに設置されているのは別の歌碑である。

浪淘沙(ろうとうさ) ながくも声をふるはせて うたふがごとき 旅なりしかなという歌碑が、ここには建っていた。
浪淘沙とは浪が砂を洗うという意味で、唐の詩人白楽天が海辺の商人の妻が遠く故郷を離れた夫を思うという内容の詩の中で用いていて、漂泊の憂いや人生の流れの空しさを表現している。
歌集「一握の砂」の中の一つの章である「忘れがたき人人(一)」には、函館や小樽・釧路での人々を詠った歌が収められていて、最初の歌は、「潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ今年も咲けるや」である。
この章の終りの32首は釧路でのことを詠った歌で、釧路最初の歌が「さいはての 駅に降り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」で、釧路最後の歌が「浪淘沙(ろうとうさ) ながくも声をふるはせて うたふがごとき 旅なりしかな」となっている。
この場所は、啄木が釧路に初めて降り立った場所でもあり、釧路を最後に去る場所でもあり、この歌碑は、ここに建てられたようである。
浪淘沙とは浪が砂を洗うという意味で、唐の詩人白楽天が海辺の商人の妻が遠く故郷を離れた夫を思うという内容の詩の中で用いていて、漂泊の憂いや人生の流れの空しさを表現している。
歌集「一握の砂」の中の一つの章である「忘れがたき人人(一)」には、函館や小樽・釧路での人々を詠った歌が収められていて、最初の歌は、「潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ今年も咲けるや」である。
この章の終りの32首は釧路でのことを詠った歌で、釧路最初の歌が「さいはての 駅に降り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」で、釧路最後の歌が「浪淘沙(ろうとうさ) ながくも声をふるはせて うたふがごとき 旅なりしかな」となっている。
この場所は、啄木が釧路に初めて降り立った場所でもあり、釧路を最後に去る場所でもあり、この歌碑は、ここに建てられたようである。
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