2012年に旅したオホーツク街道の続き) その18 啄木歌碑への旅 その2
釧路停車場の碑を見た後、幣前橋を渡って南大通りを歩いて行く。
南大通り2丁目の②の場所に、まず歌碑がある。

ここの歌碑は
北の海
鯨追う子等 (ら) 大いなる
流氷来るを 見ては喜ぶ
である。
歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の、釧路を歌った32首の中にはこの歌は無く、北海道を離れて東京に行った明治41年5月~6月に詠み、この詩集に収められなかった作品である。
北海道の先住民族であったオホーツク人は、冬期間になると海獣を捕っていたということだが、捕鯨もしていたという先史があり、石川啄木が釧路に居た頃も、流氷の来る頃になると流氷とともにクジラがやって来ていたのであろう。
次が③の場所の、小奴の歌碑である。
北の海
鯨追う子等 (ら) 大いなる
流氷来るを 見ては喜ぶ
である。
歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の、釧路を歌った32首の中にはこの歌は無く、北海道を離れて東京に行った明治41年5月~6月に詠み、この詩集に収められなかった作品である。
北海道の先住民族であったオホーツク人は、冬期間になると海獣を捕っていたということだが、捕鯨もしていたという先史があり、石川啄木が釧路に居た頃も、流氷の来る頃になると流氷とともにクジラがやって来ていたのであろう。
次が③の場所の、小奴の歌碑である。
ここは啄木が贔屓(ひいき)にしていた芸妓の小奴が、後年「旅館大近屋」の女将をやっていた場所である。
ここには、歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の釧路を歌った32首の中から選ばれた小奴を歌った3首を刻んだ「小奴の碑」がある。
選ばれた3首は
あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓(おり)を啜(すす)るごとくに
小奴といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
舞へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒(あくしゅ)の酔いにたふるるまでも
ここには、歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の釧路を歌った32首の中から選ばれた小奴を歌った3首を刻んだ「小奴の碑」がある。
選ばれた3首は
あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓(おり)を啜(すす)るごとくに
小奴といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
舞へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒(あくしゅ)の酔いにたふるるまでも
またここには、同名のバス停もある。
小奴の碑から釧路川の方に向かって歩いて行くと、④のガソリンスタンドの事務所前に歌碑があるが、ここには啄木が釧路時代に働いていた旧釧路新聞社の建物があった。
小奴の碑から釧路川の方に向かって歩いて行くと、④のガソリンスタンドの事務所前に歌碑があるが、ここには啄木が釧路時代に働いていた旧釧路新聞社の建物があった。
旧釧路新聞社の建物は、啄木が来釧する前日の明治41年(1908年)1月20日に完成し、1965年頃まで現存していた。
ここの歌碑は歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の、釧路を歌った32首の中から選ばれた
十年まへに作りしといふ漢詩を
酔へば唱へき
旅に老いし友
である。
この歌は啄木が釧路の釧路新聞社に勤務していたころ、交遊のあった菊池武治氏のことを歌ったものと言われている。
菊池武治は「北東新聞」の記者で、号を「鷲南」と称していて、啄木は釧路を去る直前の3月26日、この菊池氏と酒盃を交わしている。
酒を酌み交わしながら啄木も自分が作った漢詩を披露し、菊池氏もまた10年も前に作ったという漢詩を朗吟したのだった。
ここの歌碑は歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の、釧路を歌った32首の中から選ばれた
十年まへに作りしといふ漢詩を
酔へば唱へき
旅に老いし友
である。
この歌は啄木が釧路の釧路新聞社に勤務していたころ、交遊のあった菊池武治氏のことを歌ったものと言われている。
菊池武治は「北東新聞」の記者で、号を「鷲南」と称していて、啄木は釧路を去る直前の3月26日、この菊池氏と酒盃を交わしている。
酒を酌み交わしながら啄木も自分が作った漢詩を披露し、菊池氏もまた10年も前に作ったという漢詩を朗吟したのだった。
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